「これは、数ちゃんから私へのメッセージ」
(母さんが死ぬことを、母さん自身に知らせてることになるんじゃ?)
「え? 何のために? どうしてそんなことを赤の他人がするんだよ? 母さんの気持ちは?」
幸雄には、数の行動の意味が理解できなかった。
(勝手すぎる!)
幸雄の顔には、明らかに怒りの感情が表れている。
しかし、絹代は静かに、
「数ちゃんはね」
とささやいて、幸雄が今まで見たこともないような幸せそうな顔でほほえんだ。その表情には、数のメッセージによって死を宣告された恐怖などは微塵も感じられない。
「戻るのよ、未来に……」
「私にしかできない、最後の仕事をくれたのよ」
(あ……)
幸雄が子供の頃に死にかけた話をするとき、いつも、絹代は「私は何もしてあげることができなかった」と言って泣いていたのを思い出した。病気や事故とはいえ、何もできないもどかしさを絹代はいつまでも忘れられなかったのだろう。
「戻るのよ、未来に……」
絹代は、優しくそう言って、ほほえんだ。
「嫌だ」
「母さん、信じてるから」
「嫌だ」
幸雄は大きく首を横に振る。
絹代は幸雄から返してもらった通帳と印鑑を額にいただき、
「これは、母さん、もらっとくわね。あんたの気持ちが詰まってるものだから。母さんも使わずにお墓まで持ってくわ」
と、深く、深く頭を下げた。
カランコロン……。
「母さん……」
絹代は、頭を上げると、優しい笑顔で幸雄の目を見た。
「自分の子供が死にたいって言ってるのを、救ってやれない親ほど、苦しいものはないわ」
幸雄の唇がブルブルと震えだした。
「……ごめん」
「いいのよ」
「ごめん」
「さ……」
絹代はそう言って、ほんの少し、カップを幸雄に向かって押し出した。
「数ちゃんに、ありがと、って伝えてくれる?」
「……」
幸雄は(わかった)と返事をしたつもりだったが、言葉にはならなかった。息を飲むと、震える手でカップを持ち上げた。幸雄がにじむ視界の中で顔を上げると、絹代も満面の笑みを向けて泣いている。
(私の可愛い子……)
声が小さすぎて、幸雄には聞き取れなかったが、絹代の唇はそうささやいていた。まるで生まれたての赤ん坊に話しかけているかのように。
親にとって、子供はいつまでたっても子供なのである。ずっと、ずっと見返りも求めず、常に子供の幸せだけを願い、愛情を注いでくれた、母。
幸雄は、
(自分が死ねばすべて終わる)
と、思っていた。死んだ絹代には関係ない、と。だが、それは違ったのだ。死んでも母であることに変わりはない。想いに変わりはない。
(死んだ母をも悲しませるところだった……)
幸雄は一気にコーヒーを飲みほした。モカ特有の酸味が口いっぱいに広がる。そして、再び、ぐらりとめまいがして、体が湯気になる。
「母さん!」
幸雄の声は、もう、絹代に届いているかどうかはわからない。だが、絹代の声は幸雄の耳にしっかり届いていた。
「会いに来てくれて、ありがと……」
幸雄のまわりの景色が上から下へと流れはじめた。時間が過去から未来へと戻っていく。
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