「東急vs西武」懐かしき渋谷の"熱狂時代"を辿る ブームを生み出す東急、圧倒的にイケてる西武

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私の学生時代を思い返すと、渋谷は西武系の存在感が圧倒的だったといってもいいでしょう。イケてるのは間違いなく西武の方で、一方の東急系はどちらかというと地味で、中高年向きのイメージがありました。

ただ、西武系商業施設の後塵を拝した東急グループもただ黙っていたわけではなく、渋谷区立大向小学校が神南小学校と統合されることになったのをきっかけに跡地を落札し、そこに東急百貨店本店をつくり、西武百貨店を駅前の東横店と挟み撃ちにする腹積もりでした。本店の裏手は高級住宅地として知られる松濤です。

ちなみに、東横店の店頭売上の方が圧倒的にあったにも関わらず、新店舗を「本店」としたのは、百貨店としての品格、地位を高めるためでした。本店は松濤地区をはじめとする上顧客に高額品を買っていただけるほか、外商を利用されるお客様によく利用いただきました。東急百貨店本店は渋谷で隠然たる存在感を発揮します。

私が東急に入社したのは1985年でしたが、この年に過度なドル高を是正する目的で、アメリカが主要先進5カ国(日・米・英・独・仏)の大蔵大臣・財務長官と中央銀行総裁をニューヨークのプラザホテルに集めて確認された協調行動合意、いわゆる「プラザ合意」が発表されました。

この影響はてきめんで、日本では円高不況に対する懸念から、日本銀行は低金利政策を継続し、企業が円高メリットを享受し始めます。

国内景気は急速に回復し、これがきっかけとなって低金利局面と銀行の過度な貸出が過剰流動性を招き、不動産や株式などの資産価格が高騰。これがいわゆる「バブル景気」です。

東急も特に不動産価格高騰により大きな利益を上げましたが、すでに土地区画整理事業は峠を越えていましたので、いずれはやってくる多摩田園都市の販売用土地在庫の枯渇を目の前にして、新たな収益事業の確立が急務となっていました。

渋谷で存在感を発揮していたのは、東急電鉄よりも小売業を営む東急百貨店でした。それは、地域や商店街との接点を多く持っていたからに他なりません。東急電鉄はどちらかというと東急百貨店の後ろに隠れた存在だったように思います。

残念ながらいまでは長期凋落傾向にある百貨店業態ですが、昭和の時代の百貨店は相当な力をもっていました。その中でも頂点に君臨したのは、三越や伊勢丹などのいわゆる「呉服系」で、電鉄系百貨店を下に見る風潮には当時常務取締役だった五島慶太も忸怩たるものを感じていたようで、過去に三越買収に乗り出そうとして、財界各方面からストップをかけられて涙を飲んだこともあるくらいでした。

老舗百貨店に対抗した「のれん街」

その代わりといってはなんですが、1956年には業績が低迷していた江戸三大呉服店の出自をもつ日本橋の白木屋デパートを買収しました(その後東急百貨店日本橋店となり、1999年に閉店売却して現在はコレド日本橋)。

当時は呉服系百貨店と比較して、商品仕入れの目利きや販売技術といった商売のノウハウ、あるいは上顧客リストの整備という面で劣後していた私鉄系百貨店のレベルを、都心進出によって少しでも上げたいという思いがあったのだと思います。

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