関ヶ原の戦いの「名場面」が存在しなかった事情 2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」
秀秋は「開戦したと同時に裏切った」?
房野:関ヶ原の戦いのことを知ろうとなると、合戦当日のことも詳細に記された「軍記物」と呼ばれる史料に頼るのが一番。ところが、軍記物は〝軍記物語〞ともいうだけあって、文芸なんです。バトルシーンが魅力の一つである小説のようなものなんですね。つまり、僕らは〝フィクションをベースにしたフィクション〞を目にしてきたということになるんです。
ならば、信頼性の高い史料では「関ヶ原の戦い」はどう扱われているんでしょう。〝一次史料〞――その時代の当事者が出した手紙、日記、公文書――には、一体「関ヶ原の戦い」はどう書かれていたのか。
石川康通と彦坂元正という人たち(徳川関係者)が関ヶ原の戦いの2日後に連署で出した書状には、要約するとこんなことが書かれていました。
・9月14日に赤坂(岐阜県)に到着した家康が、15日の〝午前10時頃〞に関ヶ原に出陣して合戦が始まった。
・石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家の4人は、9月14日の午後8時頃に大垣城の外曲輪(「曲輪」=城の中に造られた区画)を焼き払って関ヶ原に向かった。
・井伊直政、福島正則、尾張衆が先手(先陣)となり、東軍の諸将がこれに続き開戦したとき、小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠父子が(西軍を)裏切ったために、敵は敗軍となった。
・追撃戦で大谷吉継、島左近、島津豊久、戸田勝成、平塚為広らが討ち取られた。