関ヶ原の戦いの「名場面」が存在しなかった事情 2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」
二木氏は「秀秋は最後まで内応の決断に迷っていた」と述べていますが、黒田基樹氏は、その著書『シリーズ実像に迫る005 小早川秀秋』(戎光祥出版)で、8月28日付で江戸方(東軍)の浅野幸長と黒田長政から秀秋のもとに東軍への寝返りをうながす書状が送られており、8月後半には家康の調略が始まっていたと語り、先の9月14日の起請文に触れ、家康側(井伊と本多)から起請文が出されているのだから、秀秋側(平岡と稲葉)も起請文を出しているはずと考え、この段階で秀秋は「大坂方から江戸方に転じる意向があった」と主張しています。
また黒田氏は、吉川広家(西軍の大将・毛利輝元の親族。西軍に属したが、家康との約束で軍を動かさなかった武将)が合戦の2日後に出した「書状案」などを分析。秀秋の裏切りがはっきりしたため、三成は、関ヶ原の山中(地名)に陣取っている大谷吉継が危険になったと判断し、大谷隊を守るべく大垣城から関ヶ原に移動してきたと断じます。ただ、この段階では、秀秋は松尾山で大坂方(西軍)の立場をとっていたと推測しています。
とはいえ黒田氏は、合戦中に「決断をうながすために、家康が秀秋の陣に向けて問鉄砲をおこなった」のは「すべて後世の創作」で、「当時の史料からは、開戦とほぼ同時に、秀秋は江戸方の立場をとって、大坂方を攻撃したことが明らか」(前掲書)と言います。
これが本当だとすると、裏切ったのは間違いないが、味方が数時間も奮戦する中、傍観を決め込んだすえ、急に味方に攻めかかったという説とはゼンゼン違ってしまいますね。
関ヶ原の戦いはなかった?
これに輪をかけて驚きの新説を披露するのは、乃至政彦・高橋陽介著『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)です。
同書は、秀秋はもっと早くに東軍に転じており、石田三成も9月12日の時点でこの事実を認識したと言います。二次史料では、秀秋は三成と大垣城にいたとありますが、これは誤りで、秀秋は別の場所に布陣して西軍に敵対的な姿勢を見せており、9月14日に軍事行動を始め、関ヶ原の松尾山を占拠したと言います。
すると「秀秋の裏切りを知った三成は、秀家・行長・惟新の諸隊を率いて、秀秋を討つべく、雨の降るなか、山中方面へ向かった」(前掲書)と言うのです(惟新とは島津義弘のこと)。一般的には、家康が偽情報を流し、三成らを大垣城から誘い出して、関ヶ原におびき寄せたことになっていますので、その説が根本的に崩れるわけです。
ともあれ、秀秋が初めから東軍として行動していたのであれば、彼は二次史料によって汚名を着せられたわけですね。ただ、松尾山から駆け下った秀秋の大軍が西軍を壊滅に追い込んだことは間違いないので、この功により秀秋は備前・美作2国50万石を与えられ、岡山城主となりました。
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