関ヶ原の戦いの「名場面」が存在しなかった事情 2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」

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驚きなのは小早川秀秋らが裏切ったタイミングです。手紙には「開戦したと同時に裏切った」というニュアンスで綴られているのです。つまり、関ヶ原の戦いでは必ず描かれていた名場面、秀秋の迷いとそれに向けた家康の「問鉄砲(といでっぽう)」はなかったということになります。

超有名な関ヶ原の戦いですが、中身は明らかになってないことのオンパレード。問鉄砲や、井伊直政と福島正則の先陣争いなどは、(おそらく)フィクションだし、兵数はもちろん諸説ありで、東軍・西軍といった呼称や当日の布陣なんかも後世の創作だと言われています。

はっきり言って謎だらけの関ヶ原。河合先生、関ヶ原の戦いで新たにわかったことなどありますでしょうか?最新の関ヶ原事情を教えていただきたいです!

合戦の前日に態度を明らかにしていた秀秋

河合:おっしゃるとおり、関ヶ原合戦はあれほど有名なのに、当日のことをきっちり書き残した史料がないんです。

この項では、小早川秀秋のことについてお話ししましょう。

秀秋は天下分け目の関ヶ原合戦で、西軍の主力でありながら、あろうことか戦いの最中に寝返って味方を攻撃したと言われ、この軍事行動が西軍の敗北を決定づけたとされてきました。

関ヶ原合戦の様子は『関ヶ原始末記』に詳しく書かれています。これによると、合戦が始まっても松尾山から動こうとしない秀秋に対し、気を揉んだ家康は、松尾山に鉄砲を撃ち込むよう命じたと言います。このため旗幟(合戦での立場)を鮮明にせざるを得なくなり、秀秋は松尾山を駆け下り、味方の大谷吉継の陣へなだれ込んだのです。

裏切り大名を加え、東軍は西軍の3倍の兵数に膨らみ、西軍は総崩れとなったのです。この定説に対し、今回は新説を紹介していきましょう。

関ヶ原合戦の前日(9月14日)に家康の重臣である井伊直政と本多忠勝が、小早川秀秋の家老・平岡頼勝と稲葉正成に出した起請文(誓紙)が残っています。これを見ると「秀秋のこれまでの行為についてはすべて水に流す。平岡・稲葉両名の忠節ぶりには家康も喜んでいる。そして今後の忠節次第によって、秀秋に二カ国進呈しよう」(二木謙一著『徳川家康』ちくま新書)と記されています。

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