【後編】大河の主役「徳川家康」先祖の波瀾万丈 家康の祖父「松平清康」までの一族の歴史を辿る

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伊勢宗瑞の攻撃により、岩津城は落城したとの説もある。今川勢に直接攻撃された惣領家の岩津松平家は衰退し、攻撃を免れた安城松平家がいっそう台頭してくるのだ。長忠は長命であり、天文13年(1544年)8月まで生きた。その前年(1543年)には家康が誕生している。

さて、永正三河大乱の終結により、長忠は一線を退き、子の信忠が安城松平家の当主となる。しかし、この信忠、『三河物語』の記述によると、かなり評判が悪い。

それまでの松平家の当主が情ある人と記載されているのに、信忠は「御慈悲の御心も無」「御内衆にも御詞懸(ことばかけ)も無」と記され、家臣や領民からも嫌われていたという。同書は信忠を「不器用者」(指導者としての器量がない者)とまで記す。

信忠を嫌い、城に出仕しない侍まで現れた。ストライキである。このような有様であったから、信忠の弟・信定を当主に据えようとの動きもあったという。

信忠は清康に家督を譲る

そしてついに、信忠は一族や家臣の要望に応える形で、嫡男の清康(当時、13歳)に家督を譲ることになる(1523年)。信忠は三河国大浜(愛知県碧南市)に引退し、享禄4年(1531年)7月に死去(信忠引退の背景には、仏事にのめり込み、俗世を厭う傾向があったことを指摘する説もある)。

信忠は、岩津松平家の所領を併合したり、政務を強硬に推進したというから、武断的である意味、独裁的な当主だったのだろう。永正三河大乱という内乱後の当主としては、家中の引き締めも必要であり、そうした姿勢も仕方のない面があったと思う。

信忠時代の大永2年(1522年)5月頃には、安城松平家と岡崎松平家との間で合戦が発生していたようだ。家中では、弟の信定を当主に据えようとの動きもあったようだから、信忠としてはまさに内憂外患。「家中の者も信用できん」との気持ちに拍車がかかっていた可能性もある。

しかし、それが一族や家臣の反発を招き、最終的に引退させられたのである。

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