【後編】大河の主役「徳川家康」先祖の波瀾万丈 家康の祖父「松平清康」までの一族の歴史を辿る

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同月16日、親忠が開創した大樹寺において、松平一族の人々が連署した「連判状」が作成されている。同寺に対する狼藉や竹木伐取を禁じると記されている書状に、岩津・岡崎・長沢・形原・竹谷の松平氏が署名しているのだ。

安城松平氏の菩提寺の安全を保障する文書に、他所の松平氏が署名しているということは、安城松平氏のもとに「松平一族」が結集していることを示すものであろうし、安城松平家の台頭を見ることもできよう。

親忠の後継者は、嫡男の長忠(『三河物語』には長親とある)であった。長忠の時代にはいわゆる「永正三河大乱」と呼ばれる内乱が勃発する。内乱勃発の端緒となったのは、駿河国の大名・今川氏親とその叔父で後見役の伊勢宗瑞(北条早雲)の三河国侵攻だった。

今川氏による三河への侵攻

その前に今川氏は、遠江国(静岡県西部)の守護・斯波氏に属する豪族を攻めるため、同国に兵を進める。今川氏は遠江国で勢力を広げるが、戸田憲光(三河国田原城主)は、敵対する牧野古白(三河今橋城主)を討つため、今川氏に加勢を依頼。これに応えた今川氏が三河に入り、今橋城(愛知県豊橋市)を攻撃(1506年)。今橋城は陥落する。しかし、今川氏による三河侵攻は、中央の政治状勢が絡み、続行されたという。

当時、足利将軍家は分裂しており、足利義稙(10代将軍)派と足利義澄(11代将軍)派に分かれていた。今川氏は「義稙派」、松平氏は「義澄派」であったことから、内乱は永正5年(1508年)まで、約2年ほど続く(1508年4月、足利義稙は、周防国の大名・大内義興の協力により、上洛、再度、将軍に就任)。

内乱のなかで、伊勢宗瑞の軍勢が岩津城に来襲したこともあった。岩津城は惣領家の城である。『三河物語』によると惣領の岩津殿は、敵の大軍(1万)が押し寄せてきても、動揺することなく、防戦したという。

安城城主の松平長忠も、500騎の軍勢を率いて城を出て、今川勢相手に奮戦する。そうしたこともあり、今川氏は松平氏を完全に攻略することはできず、三河から徹退。ただ、この内乱以降、岩津松平氏は没落した。

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