"逆臣"批判もある「北条義時」が本当は偉大なワケ 約700年にわたる武家政権の礎を固めた男の半生
義時は、頼朝が征夷大将軍となった建久3(1192)年に妻を迎えている。相手は比企朝宗の娘「姫の前」で、頼朝が仲を取り持ったといわれている。この婚姻からも、頼朝が義時にいかに期待していたのかがわかる。
というのも、頼朝が13歳で伊豆に流されてから、自分を援助して物心ともに支えてくれたのが、比企一族だった。そのため、頼朝はわが子の頼家が生まれると、乳父を比企能員に任せている。さらに能員の妻、比企尼の次女と三女らに、わが子を養育させた。
そうして自身は北条から妻を迎えながらも、頼朝は比企との関係も強化。北条と比企が連携することで、安定した幕府運営が可能になると思ったのだろう。義時に北条と比企との懸け橋になってもらうべく、頼朝がまとめたのが、義時と姫の前との婚姻だった。
義時には、姫の前との婚姻前に阿波局という女性との間に生まれた、泰時という子がいた。頼朝はその泰時の烏帽子親を務めて、後見人となっている。比企ばかりを重視するわけではないという、頼朝のバランス感覚がみてとれる。
息子の頼家はといえば、比企能員の娘である若狭局を側室とし、建久9(1198)年に長男の一幡をもうけた。頼家が17歳のときのことである。
頼朝からすれば、頼家も無事に育ち、孫の一幡も生まれて、まさに盤石といってよい。あとは北条と比企が手を携えて将軍を支える体制さえ整えば、将軍の座を頼家に安心して譲ることができる。そう考えていたことだろう。
頼朝の死によってカオス状態に
だが、「一寸先は闇」とはよく言ったもので、人の運命は一歩先を読むことさえ難しい。
頼朝は建久10(1199)年、落馬してほどなく急逝。51歳の若さで他界してしまう。
さらに頼家が重病に陥ったことで、北条と比企は次期将軍候補をめぐって、激しく対立する。比企は当然、一幡こそ次期将軍にと推すが、比企に幕政を牛耳られたくない北条時政は、頼朝と政子の間に生まれた次男の千幡(のちの実朝)を次期将軍に据えたがる。
北条の父を持ち、比企から妻を迎えた義時の運命も、大きく変わっていく。比企氏討伐を決意した時政から命を受けると、義時は妻の生家である比企一族を滅ぼすべく、動かざるをえなかった。実朝の擁立に向けて、将軍の頼家も、北条によって死に追いやられている。
義時からすれば、頼朝に託された、比企との連携を果たせなかったどころか、鎌倉幕府が内部崩壊しかねなかった。そのうえ、父の時政が若き後妻の牧の方と、3代将軍の源実朝を廃し、娘婿の平賀朝雅を擁立しようとするのだから、カオス以外のなにものでもない。
義時は、政子とともに時政のクーデターを防いで、父を追放。3代将軍の実朝が温和な性格で政務にそれほど関心がなかったこともあり、義時が実権を握っていく。
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