"逆臣"批判もある「北条義時」が本当は偉大なワケ 約700年にわたる武家政権の礎を固めた男の半生

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頼朝は、平治の乱に敗れて流人として、伊豆の地にやってきた。頼朝を監視したのが、北条政子の父・北条時政である。時政はもちろん娘の恋路に反対し、平氏の一門である山木兼隆のもとに嫁がせようとするが、政子はそれに反発。夜通し歩いて、伊豆山にいる頼朝に会いに行くなど、恐るべき行動力で、父に結婚を認めさせた。

この政子の意志の強さがなければ、弟の義時が頼朝を支える立場になることはなかった。また時政もなかなか腹が据わっている。『源平盛衰記』では、時政の頼朝への印象の変化をこんなふうに表現している。

「北条時政は、世間の目を恐れて、兼隆のもとへ娘を嫁がせようとしたが、頼朝の『心の勢』に触れるうちに、心から頼りにするようになった。頼朝もまた、時政は賢人で策略家だと感じて、そむく心はなかった」

軍記物語であることを踏まえて読む必要はあるが、時政が頼朝とともに、平家打倒に踏み切ったことを思えば、2人に信頼関係が生まれたのは確かだろう。そんな頼朝が時政とはまた異なる意味合いで頼りにしたのが、義時だった。

隔たりのない心で頼朝の信頼を得る

頼朝が鎌倉に入ってしばらくして、平清盛は病死。2カ月後の治承5(1181)年に、頼朝は自分のそばに置いて、寝床を警備する11人を選んだ。

選出の基準は「弓矢が達者で、頼朝との間に隔たった心のない者」。和田義茂、梶原景季、千葉胤正といった有力御家人の子息たちが選ばれるなか、義時も選ばれた。それどころか、義時の名が筆頭に記されている。

義時は19歳にして、頼朝が最も頼りにする御家人の1人となった。そして翌年に起きた事件で、頼朝の義時への信頼感は揺るぎないものになる。

事件とは、政子の妊娠中に起きた、頼朝の浮気騒動だ。激怒した政子は北条家の親族の力を借りながら、愛人の「亀の前」が滞在する屋敷をぶち壊した。この騒動の余波で、時政は無断で伊豆に帰還している。娘を嫁がせている父として、頼朝に思うところがあったようだ。

しかし、そんなときでも、義時は父に従うことはせずに、鎌倉にとどまっている。そのことが、頼朝の心に深く残ったらしい。『吾妻鏡』によると、頼朝は義時にこう言ったという。

「汝は私の気持ちを汲んで、父と一緒に伊豆へ帰ることはなかった。とても感動している。きっと汝が子孫の護りとなってくれるに違いない」

『吾妻鏡』は北条寄りの記載なので、誇張されている可能性はあるが、義時が父の行動に呼応しなかったのは確かだ。有力御家人の台頭を恐れて、疑心暗鬼に陥りがちな頼朝からすれば、マジメな義時は信頼に足る人材だったのだろう。

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