徳川家康の「桶狭間」後が何ともしたたかすぎる訳 信長を大逆転させた戦略と同じOODAループの要諦

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元康は岡崎城に入ったのですが、織田に対しても今川に対しても、どちらの味方がわからないという状態を作れました。つまり意思決定できるのは松平元康ということになったわけです。これは今川からも織田からも、コントロールしにくい状態と言えます。

元康は松平家の城を取り戻すことに成功

彼はこの状態で1年以上を過ごします。当然この間に織田方とも戦っていますし、今川方とも小競り合いをしました。この過程でも元康はずっと今川、織田及びその周辺の状況を「観察」しています。観察での大きなポイントは、今川と同盟を結んでいる北条・武田の動きです。もし同盟関係が安定しているなら元康としてはまだ今川家についたほうが得となりますし、下手に敵に回せないことになります。

同盟関係が崩れたなら、今川家は戦力を東に向けて守らねばならず、それであれば、織田と敵になっているより、味方になったほうが得です。結果的には武田家が今川家への内政干渉を始めて、今川家は東側に注力せざるを得ないとなったところで、元康は信長と清洲同盟を結びます。ここで、元康は念願の独立を手に入れることになりました。

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今川の先鋒として参戦した桶狭間の負け戦の中で元康が行ったOODAループ。岡崎城に入る判断を間違えていたら、われわれが知る徳川家康はいなかったかもしれないし、江戸時代はなかったかもしれません。このときの元康の意思決定の判断力というのが、桶狭間の戦いで奇跡的な勝利を収めた信長の意思決定に匹敵するものだと思います。

信長と組んで家康と名乗るようになった後も、彼は何度もリスクのある意思決定をしました。信長亡きあとは秀吉、秀吉の死後は関ヶ原の戦い、という重要な意思決定の場で、この「観察」「仮説」「選択」「行動」というOODAループを回していたと思って間違いないでしょう。ひとつ間違えればダメだというところで、まず間違いない意思決定を行っていました。

このように最悪の事態を想定しながら、よりよい選択をスピーディーに模索し行動する戦国武将の姿は我々ビジネスパーソンにとっても見習うべき部分が多いのではないでしょうか。

眞邊 明人 脚本家、演出家

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まなべ あきひと / Akihito Manabe

1968年生まれ。同志社大学文学部卒。大日本印刷、吉本興業を経て独立。独自のコミュニケーションスキルを開発・体系化し、政治家のスピーチ指導や、一部上場企業を中心に年間100本近くのビジネス研修、組織改革プロジェクトに携わる。研修でのビジネスケーススタディを歴史の事象に喩えた話が人気を博す。尊敬する作家は柴田錬三郎。2019年7月には日テレHRアカデミアの理事に就任。また、演出家としてテレビ番組のプロデュースの他、最近では演劇、ロック、ダンス、プロレスを融合した「魔界」の脚本、総合演出をつとめる。

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