一方の当時の織田家はいわゆるベンチャーのように少人数組織だったので、意思決定のスピードが非常に速く機動的に動けました。リーダーである信長としての最悪の事態は自分が討たれることだけなので、イチかバチかの判断をしやすかったということもあります。ここが信長のラッキーな点でした。何もかもが信長にとってうまく回ったという印象です。
このとき徳川家康(松平元康)は、この雲散霧消させられたうちの一隊でした。彼は自分のチームを率いて逃げるわけですが、かつて松平家の城だった岡崎城方面に向かいます。この岡崎城は今川の守備兵が守っていました。
このとき元康の部下は「一気に岡崎城を乗っ取ってしまいましょう」と提案します。岡崎城の城主に戻るのが当時の元康のミッションですから、今川の守備兵がかなり少ないなら一気に中に入って奪い返すというのは、普通に考えたら非常に機動的な考えですが、これを元康は止めました。そして近くの寺に布陣して岡崎城に入りません。
そうすると、岡崎城の近くにいた今川の兵たちは意図がわからないと怯えます。「どうか松平さん、城に入ってください。一緒に戦いましょう」と懇願しますが、これも元康は断ってしまう。元康の意図が掴めず、しばらくは膠着状態が続きますが、元康の部下としては背後から織田が追ってきているわけですから非常に危ないと思うわけです。
つまり織田軍と決戦することになる場合、城の中にいるのと野外で戦うのとでは強さがまるで違います。自軍を守り敵軍を倒すためのものが揃っている城に入ったほうが圧倒的に強いのですが、元康は頑として入ろうとしない。
そのうち「これではダメだ」と今川の守備兵は逃走します。このタイミングでようやく元康は岡崎城に入城します。
状況を的確に観察し最悪を避ける
信長が桶狭間の戦いでOODAループを回したのと同様に、このとき元康が行ったのも、まさにOODAループです。ただ信長のOODAループと若干違うのは、信長の場合は、もう選択の余地がないイチかバチかの懸けでした。一方の元康はそうではなく、いろんな選択肢が考えられるなかでの意思決定でした。
まずOODAループの基本的な考え方は「最悪を逃れる」ということです。ここで言う最悪とは、当時の松平家からすると相手が織田であろうが今川であろうが滅ぼされてしまうことです。したがって元康の命、そして配下の兵の命が大事なわけです。
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