もちろん、それでもほんのちょっとだけお金があれば、それは有用な手段として「豊かみ」にエッセンスを与えてはくれるので、お金を持っていることは、決して悪いことではない。要は、お金を崇拝するのではなく、お金をパシリの後輩として使うという態度が大事なのだと思う。
私は、まどろっこしい思考を得たチャーリー・チャップリンなのか。
無用の石も、高級フォアグラも、暇を持て余した人間の前では、等しく価値を得るのである。
システムよりも生態系を
石の販売は、もうひとつ、私に示唆を与えてくれた。
「経済システム」がなくても、お金には勝てるかもしれない、という示唆である。
様々な催し会場で石を売っていると、色んな人に声をかけられる。お客さんであったり、隣り合った出店者さんであったり、イベントの関係者の人だったり。
「石を売るって、最高だなあ」
「石が売れる世の中であってほしいですよね」
「石を買うっていう嗜みを忘れたくない……、それこそが文化……」
みんな、それぞれ、異口同音に、「なんの変哲もない石を売る」という行為を肯定してくれる。そして石をひとつ買ってくれたり、「次、こんなイベントを開催するので是非出店してください」とチラシを置いていってくれたりした。「こんど、一緒に石拾いに行こうよ」と声をかけてくれる人もいて、その人とは後日、友人になったりもした。
その時に私は、なにかが少しずつ、「プチプチプチッ」と静かに音を立てながら、豊かに形成されるような景色をそこに見る。それは、決して「経済システム」などという、味気のない代物ではない。
あえて言葉を探すなら、それは「生態系」と呼ばれる景色なのだろう。
「無用の石を売る」という行為を通して、石のハッシュタグを植えつけられた者たちが、ゆるやかにつながっていく。そうしているうちに、そこに形のない「池」のようなものがいつの間にか現れる。そして「売買」という契りが結ばれる中で、その「池」は豊かに広がり、また深度を増していく。プランクトンが発生し、それを食べる小魚が集まり、またそれを狙う鳥が現れて、こうして「生態系」は循環されていく。
「システム」は脆い。ひとたび変化が起きれば、それに対して柔軟性を持って臨めない無機的なものだからだ。
だが、「生態系」は変化に強い。そもそも「生態系」自体が、変化を繰り返しながら、有機的に持続を可能なものにしている存在だからだ。
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