それはとても豊かな時間で、気づけばその日、石だけの売り上げで5000円近くを稼いだのであった。
片付けの時間、私は十分に満たされた気分を味わっていた。隣のドリンク屋台の女性が「よかったね!」と声をかけてくれたので、「はい! おかげさまで!」とダイヤモンドのような声を返し、また石をひとつ、プレゼントした。
子ダヌキ物語のラストシーンなのか、これは。
暇と退屈の経済学
調子づいた私は、その後も「石とウィスキー」のスタイルで、他のいくつかのイベントに出店を試みた。
イベントの特色にも左右はされたが、「石とウィスキー」の店は、概ね好評だった。たくさんの人たちが、ウィスキーを嗜(たしな)みながら、最後は石を買っていってくれる。なんの変哲もない、どこの市場に出しても価値のない、ただの石を。
『手づくり市』初日に味わった、あの「地獄の暇」がぶり返すことはなかった。
こうして無用の石を売っているうちに、ひとつ、思い至ったことがある。人はなぜ「買い物」をするのか、ということである。
それはおそらく、「暇つぶし」に他ならないのだろう。
石の手前にウィスキーを用意したことで、お客さんには「暇」が発生した。お酒が提供されるまでの時間、およびお酒を飲んでいる最中の時間が発生した。人間は余暇が生まれると、それをつぶそうと躍起になる。それほどまでに、暇とは怖いものだからだ。だから、さっきまでは興味を抱いてもいなかった石に目を注ぎだす。そして、そこに価値を見出そうとし始める。こうして「暇つぶし」が行われ、「買い物」という行為が発生する。
生活必需品、という言葉がある。買いそろえておかなければならないもの、買っておかなければ「生きてはいけない」とされているもの、それが生活必需品だ。だが、本質的に「買わなければ生きていけないもの」など、この世にひとつたりとも存在していないように思う。食べ物は、野草を食べれば最悪どうにかなるし、住む場所も、工夫次第でなんとでもなる。服なんて、買わなくてもこの世にはいくらでも溢れている。
そんな極論に基づくならば、「買い物」とは暇をつぶすための娯楽でしかなく、そしてその娯楽によって、生命とはべつの部分の、私たちが人間としてキープオンするためのなにかが生かされているのだろう。
そう考えると、お金って暇をつぶすための、ひとつの手段でしかない。だって、お金を使わなくても、暇はいくらでもつぶすことが可能なのだ。労働もまた、暇をつぶすための娯楽なのだろう。
お金を持っている者が「勝者」なのではない。お金に拠らずとも暇を豊かにつぶせる者こそが、本当の「勝者」なのである。
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