この事態をどう見ればよいか。ことは、単純ではない。一般会計がどうして自賠責保険から「借金」をしなければならなかったか、その事情からさかのぼる必要がある。何せ、永田町と霞が関では、予算をめぐる過去の経緯がものをいう。
発端は、1994年度予算編成を行っていた1993年だった。約30年前のことである。
1993年7月18日に行われた衆議院総選挙では、与党・自民党が敗北して、非自民連立の細川護熙内閣が8月9日に発足した。同年6月に、宮澤喜一内閣が成立に向け注力していた政治改革法案を次期国会に先送りする意向を固めたことを機に、それを批判する自民党議員が、衆議院で宮澤内閣不信任決議案に賛成し、それが可決されたのを受けての衆議院解散・総選挙だった。政権交代が起き、それまで自民党長期政権が続いていた「1955年体制」が終焉した。
歳入欠陥の対応に見舞われた細川内閣
細川内閣の下で、1994年度予算編成が行われることとなった。ところが、その衆議院総選挙公示日直前の7月2日、1992年度一般会計決算が発表され、1兆5447億円もの歳入欠陥が生じたことが明らかにされた。1981年度以来二度目の出来事だった。歳入欠陥とは、決算段階で歳出額よりも確保した歳入額が少ない状態をいう。企業会計でいえば、キャッシュフロー赤字の状態である。このまま赤字補填しないと、国が約束した支払いが現金不足で不履行になる一大事である。
歳入欠陥に対しては、翌々年度までに一般会計からその不足額を補填することとされている。つまり、1994年度までに不足分を補填しなければならないということである。
当時は、1980年代後半のバブル景気期に好調だった税収を追い風に、1991年度以降、一般会計で赤字国債(特例公債)を発行せずに済んでいた。1993年度も赤字国債を発行せずに予算を組んだ。しかし、バブル崩壊に伴う不況が鮮明となっていた。
細川内閣発足直後の閣議で、細川首相は「我が国の財政は、税収の大幅減収が11年ぶりに平成4年度(編集部注=1992年度)決算で不足が生じる等誠に深刻な状況に陥っておりますが、後世代に大きな負担を残さず健全な我が国経済社会を引き継ぐことは我々の責務であり、再び特例公債を発行しないことを基本と」する旨発言した(出典:財政調査会編『國の予算(平成6年度)』はせ書房)。
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