沢木耕太郎が25年かけて書いた密偵の長大な旅路 彼が「天路の旅人」を何としても世に出したかった訳
「そうだね。せーのと心を決めて書き始めて、この7年間ずっとそれ以外の仕事は基本的にはしてないわけだよ。彼の文章、彼のインタビュー、Googleアース。それらを駆使して、彼の旅をなぞって、見えていないものを発見していった。幻のようだったものが、だんだんまさに(天の)路としてつながっていったんだよ」
本書の見返しの部分には、東アジアからインドにかけての地図が印刷されている。表見返しのそれは地名の入ったただの地図だが、裏見返しのそれには、沢木が完成させてつないだ、西川一三の旅の長大なルートが赤い線で記されているのだ。「だからその赤い線は、僕も一緒に乗船しているというか。西川さんは最後に船に乗って日本にたどり着くわけですけど、やっと神戸に帰れたんです、僕自身も」
ひとりの人の人生を預かってしまった
沢木ほど創作へのストイックさで知られる大作家が、この旅人のために25年もの歳月を結実させて、原稿用紙930枚の著者史上最長となるノンフィクションを著したのはなぜか。この旅人には一体何があるのか。沢木はゆっくりと言葉を探すようにして答えた。「1つ思い至ったのはね、僕はひとりの人の人生を預かっていたってことです」
「インタビューの1年間ずっと付き合っていて、中断して、その間ずっと彼については書きたいという気持ちと、書かなくてはいけないという気持ちが混じり合っていた。それはもしかしたら、彼の人生を半分預かっていたっていう感じがあって。彼が死んでしまった時に、それがズーンとまるごとのしかかってきた。死によって、西川さんはその人生を完結してしまったわけですよね。僕はひとりの人を預かったうえに、彼の生涯にたった1つの作品である『秘境西域八年の潜行』の生原稿も預かっちゃったわけですよ」
その生原稿は壁一帯を占領したほどの、凄まじい量だったのだという。
「本当に恐ろしいほどの量。本箱を横に3段にして積み重ねて、それで入るぐらい。それを毎日見てるわけだからさ。毎日見て、何年も書き上げられなくて、試行錯誤して、せーのってもう1回やり始めて7年、心理的に彼と過ごしたインタビューの1年を含めて、彼の人生を預かってたんだなって、今思うわけ。それはある種の義務感と使命感だけでは説明し尽くせないものなんだけれど、でも、そのうちの何割かは彼の人生を、ここにこういう人がいたことを、世の中に指し示したい、提示する協力をしたいという思いだったんです」
「だから書き終えた今、預かっていた人生を世の中に返したという感じがするんで、すごく気が楽なんですよ。やっぱりどこかで縛られてたんですよね、完成させるまで。だけど完全に自由になった。もう東南アジアの旅行にだって行けるもんねっていう、そういう感じ」
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