西南戦争の西郷隆盛軍、庶民を苦しめた「酷い戦略」 戦略次第では有利な流れにすることもできた

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熊本城を包囲しようとする西郷軍に対して、熊本鎮台の司令長官を務める谷干城は3500人もの兵を一歩も外に出さずに、徹底した籠城戦で応じた。「日本三名城」の1つに数えられる熊本城は、築城の名手だった加藤清正が築いた堅城である。そう簡単に落とされることはない。

板垣退助は西郷軍の作戦を聞いて、こう嘆いたという。

「おそらく西郷軍の精鋭は、攻城戦で尽き果ててしまうだろう」

案の定、西郷軍はやみくもに突入しては、少しずつ消耗していく。そうして時間を稼がれているうちに、政府軍が博多から熊本へと上陸してくる。

軍資金や米、馬などを庶民から略奪

待ち受ける西郷軍と政府軍が激突することになるが、とりわけ激しい戦争が行われたのが、「田原坂の戦い」である。3月上旬から下旬にかけて戦闘が続いた。

当時、1日に製造できる弾薬は12万発だったが、田原坂での戦いにおいて、政府軍は1日に平均して32万発の弾を使ったというからすさまじい。政府兵は1日平均165人のペースで戦死している。西郷軍も健闘したといえるだろう。

だが、より疲弊が激しかったのは、西郷軍のほうであり、兵員や弾薬の不足に苦しめられた。現地調達するほかなく、軍資金や米、さらに馬を奪うなど、しばしば略奪を行っている。なかには住民の殺害に至るケースもあり、西郷軍が「庶民のために立ち上がった有志たち」と言いがたい状況だったことがわかる。

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