西南戦争において「参軍」という最高司令官の立場に立ったのは、山縣有朋である。西郷の挙兵を受けて、山縣は西郷軍の進路について、すぐさま3つのシチュエーションを頭に描いた。
②長崎や熊本を制圧して九州を制覇したうえで中央に進出してくる
③鹿児島に割拠して全国の動静をうかがい、時機に応じて中央に進出してくる
政府軍の弱みは、鎮台兵として全国各地に分散してしまっていることだ。西郷軍が3万の兵をどんなふうに配置させて進軍してくるかによって、局面は大きく変わる。西郷軍は輸送船などの海軍を持たなかったものの、停泊している政府の汽船や軍艦を奪ってしまえば、一気に行動範囲は広がる。
山縣は後年、この3つの進路についてこう語った。
「もしこの三策のどれかが取られていたら、反乱の炎はさらに拡大していただろう」
さらにこう続けている。「予想があたらなかったのは、実に国家の幸いであった」と。そう、西郷軍がとった作戦は、山縣が予想した3つのいずれでもなく「全軍で熊本を経由して東京に向かう」というものだった。
謀略を用いることを嫌った西郷
しかし、これではあまりに時間がかかってしまう。せめて西郷と幹部だけでも汽船で京都や東京に向かい、天皇に直接働きかけていれば、また展開は違ったかもしれない。というのも、西郷は明治天皇の教育係を務め、厚く信頼されていた。西郷の訴えに耳を傾けた可能性は高い。
だが、西郷は謀略を用いることを嫌った。自分たちは反乱軍ではなく、明治政府に尋問しにいくだけ。ならば、堂々と上京すればよい……というのが、西郷の考えであり、幹部たちもそれを支持した。
その結果、西郷軍はいちはやく中央に進出するのではなく、政府の鎮台が置かれた熊本城の包囲に固執することになる。
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