「万葉集ってそもそもどうやって生まれたんだろう……?」
と、考えた人は多かった。全20巻4516首って、こんなに一度にたくさんの和歌を集めるのは、大変じゃなかったのか。たくさんの人がその疑問を持ったのだが、万葉集成立の謎はいまだ全貌が解明されていない。
有力な説としては、第4回(『1300年前に「ジャニーズ」的な歌を詠んだ男の正体』)でも触れたように「大伴家持が編纂の責任者だったのでは?」という声が大きい。さすがに第17~20巻分、つまり彼の大量の歌日誌を持っているのは、家持自身あるいは家持の周辺にいた人物だろう。家持がキーパーソンであることは間違いないと思う。
しかし一方で、万葉集は一気に4516首集められたのではなく、少しずつ和歌が足されて今の形になったのでは……? という説も有力なのだ。
「万葉集」成立の謎を解くキーマン「柿本人麻呂」
天皇の和歌などを中心に公的な歌ばかり集めた「原・万葉集」に、家持がいろんな歌を足して「現・万葉集」となった。そして平城天皇によってその存在が一気に広まった――こんな説が出ている。その根拠といえば、万葉集きっての有名歌人・柿本人麻呂の存在が大きい。
今回紹介するのは、その人麻呂の有名な和歌だ。
天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ
右一首、柿本朝臣人麻呂の歌集より出づ(巻7・1068)
(天空の海に雲波立つそして月の船は星の林を漕いでく)
注目してほしいのが、和歌の後に付け足された「柿本朝臣人麻呂の歌集より出づ」の部分。というのも、当時は「私家集」と呼ばれる「個人の和歌を集めた歌集」があった。いまも歌人1人の短歌を集めた歌集(単著)はたくさんあるが、それと同じようなものである。そして私家集にはその人の歌だけでなく、その人が集めた歌も収録されていた。例えば人麻呂歌集には、当時庶民の間で伝えられていた和歌も収録されている。
万葉集には、「この人の私家集から採用しました」と歌に注釈がついていることがある。柿本人麻呂が集めた、あるいは柿本人麻呂のもとに集まった歌たちが収録されている、「柿本人麻呂歌集」のなかから1首掲載、というわけだ。
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