万葉集で人麻呂歌集からとってきた歌は約364首ある(数え方によって正確な数は異なるが、ここではメジャーな数え方を採用する)。残念ながら人麻呂歌集は現存してないから、どんな歌集だったのかわからないのだが、万葉集が生まれる前すでに個人の歌集はあった。歌集があるということは、いざ万葉集を編纂するぞ、という段階ですでに和歌を集めやすい状況にあったのだろう。
防人歌など万葉集は「庶民の歌の掲載が多い」と言われるが、それは当時、自分でいろんな和歌を集めている人がすでにいたからなのだ。誰か1人の功績というよりも、時代の積み重ねの結果だ。
柿本人麻呂は奈良時代の「古典」
さきほど紹介した「天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ」の歌は、巻7の巻頭、つまり最初に掲載されている。今も漫画雑誌で、冒頭に載った人気漫画に「巻頭カラー!」なんてコピーがつくことがあるけれど、今も昔も「最初に掲載する」のは「一番えらい」作品らしい。
柿本人麻呂といえば、和歌の天才。当時、彼によって生み出された枕詞が大量にあった。日本語の幅を大きく広げた、日本のシェイクスピアのような存在である。
だからこそ万葉集には、「柿本人麻呂の歌こそが、古典であり、和歌のお手本だ」という姿勢が見て取れる。つまり万葉集編纂者はすでに人麻呂歌集を「昔の歌」として捉えていたのだ。例えば万葉集巻7は、「人麻呂歌集から採用した歌」と「万葉集で初めて掲載した歌」が、交互に並ぶ構成になっている。
現代の私たちからすると、いや人麻呂も家持も「古典」だよ……と笑っちゃうのだけど、当時の人々にとっては、大真面目に人麻呂歌集は「一昔前の古典的名著」だったらしい。そして人麻呂の歌こそが正統派だ、という意識があった。
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