令和の時代の創価学会の他宗教・他宗派へのスタンスをかいつまんで例示すれば、個人の信仰として「鳥居をくぐらない」といった判断をする人は少数ながらいる。しかし、みなが「鳥居をくぐるな」と指導したり、されたりといった情景はなくなった。かつては非難の対象だった「お祭りの神輿をかつぐ」「神社仏閣めぐりをする」といったことも今では問題視されなくなっている。
背景には、やはり、先に触れた地域貢献重視の姿勢に転じたことがある。地元の自治会や消防団などに積極的にかかわるようになったことも影響している。「神輿をかつぐ」のは地域貢献の一環だからだ。今では地域の祭りのために教団の会館を貸し出すといった事例まである。
創価学会の「他宗教・他宗派に排他的で攻撃的」という側面は相当程度、薄れてきたといえる。少なくとも、かつてのように「東の立正佼成会、西の天理教」と「敵」を排撃するような態度を見せることはなくなった。
「仮想敵」を必要としてきた歴史
一方、学会が「敵」だと認定した相手については現在も苛烈に攻撃する。わかりやすい例が「共産党攻撃」だ。たもとを分かった日蓮正宗に対してもそうである。
創価学会の重要な行事に「本部幹部会」がある。幹部会では青年部のリーダーたちが「敵」を責めたてるスピーチを行い、多くの学会員が衛星中継を通じた放映でそれを何度も視聴する。そこで幹部たちが語る「敵」は、会内ではしばしば「仏敵(ぶってき)」と表現される。
長年、創価学会で信仰活動をし、学会の歴史について詳細に学んできた私からすれば、創価学会はいつの時代においても「仮想敵」を必要としてきたように見える。「敵」を作ることは教団の結束に繋がるからだ。その意味で創価学会の排他性、攻撃性は令和のこの時代にも組織文化として残っている。
私が気になっているのは今後だ。学会は、根強く残る排他性や攻撃性を克服しようと努力できるだろうか(そもそもそんな努力は必要ないという理論を堅持する可能性はある)。個人的には、敵を作り、そこに攻撃を行うことで団結を促そうとするやり方は、長期的には組織のためにならないと思っている。
いま、旧統一教会の問題が話題だ。同教団が自分たちを特別視し、選民思想的に振る舞うがゆえに排他的・攻撃的になっている姿は多くの人の知るところとなった。詳述はしないが、創価学会の攻撃性の源は旧統一教会のそれとは異なる。
だが、排他性・攻撃性が「独善」を生み、「自分たちこそが正しい」という強い信念が、たとえば外部からの貴重な意見に耳を傾ける姿勢を失わせるということがある。国であれ、企業であれ、宗教団体であれ、外部の意見を受け付けない組織が誤った方向へ向かってしまうのは歴史の常である。
旧統一教会問題がフォーカスされている今こそ、創価学会には自らの内に宿る排他性や攻撃性を直視し、再考してほしいと思う。そのうえで「歴史の常」にからめ取られない宗教組織の模範を示してほしいと願っている。
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