家持の歌の前に紀女郎はこんな歌を送っている。
(私とあなたの縁は、そうね、きっと水の泡を結ぶことができたならいつか会えるでしょう)
紀女郎はたぶん、若き恋人が、単身赴任を終えたら自分から離れることがわかっていたのかもしれない。「沫緒」の意味は解釈がわかれるところだが、おそらく水のしぶきが重なってゆるやかに結び目をつくること……つまりはほぼ不可能であることの例えだ。
私たちの縁は、水のしぶきが重なり合って結ばれるくらいの奇跡が起きたら、また続くこともあるのかしらね。
そんなふうに言う紀女郎に、家持は「あなたが100歳になっても好きだよ」という和歌を贈る。和歌に手練れの年上女性と若き和歌の天才の恋を象徴するようなやり取りだったのだ。
「万葉集」にもボーイズラブ?
さて、家持の和歌の相手は、女性だけに限らない。例えばこちらの歌。赴任先の越中から都へ帰ることになった時、友人の男性・池主に贈った歌だ。
(愛おしいきみが、真珠だったならいいのに。そしたらほととぎすの声と一緒に紐で通して、僕の腕に巻いておきたいな)
相手は友人の男性だが、ラブ全開の贈答歌だ。ボーイズラブ!?と思ってしまうが、しかしどうやらこれは当時の教養あふれる遊びだったらしい。つまり恋愛の和歌とはこういうもの、という知識をお互い見せることによって、和歌を贈り合う戯れ。
実際、池主はこんな和歌を返している。
(恋しくて愛おしいあなたが、なでしこの花だったならいいのに。そしたら私は毎朝見られるのにな)
真珠に対して、花で返す池主も池主で、ノリノリである。和歌というと気難しいイメージがあるが、奈良時代はまだまだコミュニケーションツールの1つだった。家持や池主の歌を読むと、そんな事実を再確認できる。
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