アントニオ猪木がテレビに遺した「多大なる貢献」 プロレスだけでなく各種ジャンルでスターだった
1969年、そこにNET(現テレビ朝日)が「自局でもプロレス中継を」と参入してきた。
「日本プロレス」は日テレ以外にも放映権料が入るので、これを認めた。
ただしエースであるジャイアント馬場に関しては、NETの中継には登場させない、というのが日本テレビとの“約束”だった。
自ずとNETの中継はジャイアント馬場に次ぐ人気レスラーだった、アントニオ猪木の試合を中心に放送することになった。
こうして同じ「日本プロレス」の所属レスラーでありながら、日テレのエースはジャイアント馬場、NETのエースはアントニオ猪木という変則的な時代を迎えたのだ。
その後、猪木さんが日本プロレスを離れたため視聴率が低下したNETの要請を聞き入れて、1973年に日本プロレスは日本テレビとの“約束”を反故にしてNETの中継にジャイアント馬場を登場させてしまう。
日本テレビは激怒して日本プロレスと「絶縁」、ジャイアント馬場と一緒に「全日本プロレス」を立ち上げた。そして日本プロレスは「崩壊」する。
一方、猪木さんは「新日本プロレス」を作り、日本プロレスがなくなったNETと共に「ワールドプロレスリング」で、数々の伝説を作っていく。
このあたりの詳細は、私が企画アドバイスをして報知新聞の福留祟広記者が書いて10月13日に発売となる新著『テレビはプロレスから始まった』(イーストプレス)で詳しく記している。
プロレス史だけでなくテレビ史にも残る数々の伝説
つまり「アントニオ猪木」がスターとなった時代、プロレスとテレビは「一体」だった。
ジャイアント馬場さんが亡くなって以降、プロレスとテレビが一体だった時代のカリスマはアントニオ猪木だけだった。
その存在感があればこそ、猪木さんの議員活動を「報道局」が伝え、金銭スキャンダルは「ワイドショー」が伝え、数々の猪木モノマネ芸や「1・2・3、ダー!」がバラエティで繰り広げられたのである。
猪木さんは今年8月の日本テレビ「24時間テレビ」に車椅子姿で登場して、病と闘う「プロレスラー」の姿を見せてくれた。
その姿は、昭和30年代にデビューして以来、平成、そして令和までまさに、時代とジャンルを超えて、最期までテレビとともにあったスーパースター「アントニオ猪木」だった。
猪木さんが残した数々の伝説は、プロレス史だけでなく「テレビ史」における大きな足跡として語り継がれることだろう。
プロレス中継に携わった者として、いまは心よりお悔やみを申し上げます。
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