大久保利通が国力を育てる模範にした「意外な国」 親近感を持っていたドイツとは違う国だった

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「内務省を創設してからすぐに内外で変事が起こり、解決のために奔走を余儀なくされた。内務省の業務を見渡すゆとりがないままに約1年が経過したことは、止むを得ないことではあるが、振り返ると深くため息をついてしまう」(明治8年5月24日「本省事業ノ目的ヲ定ムルノ議」より)

内の変事とは江藤新平による「佐賀の乱」、外の変事とは「台湾出兵」のこと。だが、もはやいずれも解決した。大久保は「奉じられた職の責務を尽くすときが今こそ到来した」と改革に向けて気合を入れ直している。

大久保利通が手本としたのは「イギリス」

もっとも課題は山積しており、待ったなしだ。優先順位の高いものから手をつけていかねばならない。立憲政体へと移行する政治改革については、木戸が中心となり、やってくれることになった。これで大久保は国力の養成に打ち込むことができる。

モデルケースがあったほうが、目指すべき方向は明確になるだろう。かつて、岩倉使節団による海外視察に参加して、大久保が感銘を受けたのは、ドイツのビスマルク宰相だった(第36回『大久保利通、初海外で「円形脱毛症」になった背景』参照)。

だが、ドイツに親近感を持ちながらも、実際に国の舵取りを行うにあたって、大久保は別の国をモデルにしていた。

明治7(1874)年6月、まさに清から帰国してすぐにまとめた「殖産興業に関する建議書」では、大久保は次のような趣旨のことを述べている。

「国の工業を保護育成するためには、日本の風土や習俗、そして国民性にしたがって方法を定めていかなければならない」

そのために手本となる国として、大久保はイギリスを挙げている。イギリスは日本と同じく島国だ。国土はむしろ日本より狭いが、その利点を最大に生かしている。大久保はイギリスが繁栄した背景をこう分析する。

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