大久保利通が国力を育てる模範にした「意外な国」 親近感を持っていたドイツとは違う国だった

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大久保利通の像
大久保利通が進めた改革について解説します(写真:chang/PIXTA)
倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通はどんな人物だったのか。実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第50回は、大久保利通が進めた改革について解説する。
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<49回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、重用されるようになる。
久光が朝廷の信用を得ることに成功すると、大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫ったが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、倒幕の決意を固めていく。大久保は閉塞した状況を打破するため、島流しにあっていた西郷隆盛の復帰に尽力。その西郷は復帰後、勝海舟と出会い、長州藩討伐の考えを一変させ、坂本龍馬との出会いを経て、薩長同盟を結んだ。
武力による倒幕の準備を着々と進める大久保と西郷に対し、慶喜は起死回生の一策「大政奉還」に打って出たが、トップリーダーとしての限界も露呈。意に反して薩摩藩と対峙することになり、戊辰戦争へと発展した。
その後、西郷は江戸城無血開城を実現。大久保は明治新政府の基礎固めに奔走し、版籍奉還、廃藩置県などの改革を断行した。そして大久保は「岩倉使節団」の一員として、人生初の欧米視察に出かけ、その豊かさに衝撃を受けて帰国する。
ところが、大久保が留守の間、政府は大きく変わっていた。帰国した大久保と西郷は朝鮮への使節派遣をめぐって対立し、西郷は下野。同じく下野した江藤新平は「佐賀の乱」の首謀者となった。大久保は現地に赴き、佐賀の乱を鎮圧する。次に大久保が進めた「台湾出兵」でも粘り強い交渉の末、清から賠償金を得て、琉球も併合した。さらに大改革に向けて、維新三傑の1人である木戸孝允との関係を修復する。

粘り強さが大久保利通の持ち味

深刻な課題が出てくれば、少しでも解決に向けて動いておかないと、落ち着かないタイプだったのだろう。大久保利通のことだ。

清との交渉に自ら乗り出して、成功を収めた大久保。帰国後は、意見の相違から離脱していた木戸孝允を再び政府に呼び戻し(第49回『大久保利通、官僚に「爺さん」と呼ばれた納得の背景』参照)、苦労した軍事物資の輸送についても問題解決に向けて動き出している(第48回『躍進の陰に大久保利通「三菱」が海運で発展した訳』参照)。

いずれも難題ではあったが、粘り強さは大久保の持ち味だ。一歩ずつ前進しているという、手ごたえをむしろ楽しんでいたのではないだろうか。

なにしろ、内務省を設置したにもかかわらず、なかなか改革が進められなかった。こんな心境を吐露している。

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