元々険悪だった?「北条義時」父・時政を追放した訳 「鎌倉殿の13人」主人公の実像と北条家の確執

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だが、この政範、16歳のときに京で急死してしまう(1204年)。

その翌年、元久2(1205)年閏7月19日、不穏なうわさが鎌倉に流れる。牧の方が娘婿の平賀朝雅を将軍にし、3代将軍・源実朝を廃そうという陰謀を企んでいるというのである。この陰謀には、時政も絡んでいたようだ。ちなみに、平賀朝雅の父は義信という河内源氏の武将、母は頼朝の乳母・比企尼の三女だ。

さて、このうわさが流れた直後、時政の娘・北条政子は、長沼宗政、結城朝光、三浦義村、三浦胤義、天野政景らを時政の邸に遣わして、時政邸にいた将軍・実朝を義時の邸に移している。そうすると、時政が集めていた兵士たちも雪崩をうつように、義時のもとに来て、将軍を守護したという(『吾妻鏡』)。

実朝を義時側に奪われなければ、時政は自身のもくろみを達することができたであろうに、易々と奪われたことは、彼らしくない。

同日、時政は出家。翌日には伊豆国の北条に引っ込むことになる。そして、二度と政治の表舞台に立つことはなかった。

「畠山重忠の乱」からも透ける2人の冷たい関係

時政と義時、この2人の関係が冷却していたことは、この事件から2カ月ほど前に起きた畠山重忠の乱をめぐる対処からもわかる。

幕府の有力御家人・重忠を、時政は謀反人として討滅したかった。この乱の背景にも、平賀朝雅と重忠の嫡男・重保がけんかし、重保を恨んだ朝雅が妻の母・牧の方に讒言(ざんげん、告げ口)。それを受けて時政が重忠を討滅せんとしたという事情があった。

ここにも、牧の方や朝雅、そして時政が絡んでいたのである。時政は重忠を討ちたいことを義時に告げるが、義時は大反対。しかし、時政は強引に重忠を討ってしまうのだ。

重忠と厚い親交があった義時は、首になった重忠を見て涙を流し悲しみ、父に抗議する。時政は義時の抗議に一言もなかったという。この重忠の乱を見ていて、義時と父・時政、牧の方の間には冷たい壁のようなものがあるのを感じる。

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