元々険悪だった?「北条義時」父・時政を追放した訳 「鎌倉殿の13人」主人公の実像と北条家の確執

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宝戒寺
北条義時の屋敷跡に建立された宝戒寺(写真:ackey/PIXTA)
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。ドラマでは小栗旬さんが演じる主人公、鎌倉幕府2代執権「北条義時」は、父である北条時政を追放して、鎌倉幕府の実権を握ります。その背景には何があったのか、歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。

北条時政は義時に本家を継がせようとしていなかった

伊豆国の中小豪族でありながら、流人・源頼朝の舅となったことで、運が開けた北条時政。その次男が、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公である北条義時なのだが、私は時政が義時のことを元来、あまり好いていなかったのではないかと思えてならない。

時政の長男である北条宗時は、石橋山の戦い(1180年、源頼朝と平氏方の戦)において戦死している。よって本来ならば、次は「次男の義時を」と考えてもおかしくはない。

ところが、時政は別の子どもや人たちに本家を継がせようとしていた。その1人が、義時の異母弟である政範だ。

政範は、時政とその後妻・牧の方の間に生まれた。16歳の若さで従五位下に叙爵されており、破格の待遇を受けている。このことから、時政は政範を自身の後継者にしようと考えていたように思う。

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