アルチュセールにならえば、ロシアにとっての戦争とはロシアン・イデオロギーの物理的な実践に他ならず、戦争に参加することで“ロシア人”という主体として構成されるのである。
同時に、戦争を記念する行為、例えば、正教会による追善供養(パニヒダ)も、国家的に祝われる戦勝記念行事もまた、イデオロギー的実践である。こうした行為を通じて、ロシア国民は自分たちがロシア国民であることを再確認し、ロシア国民たるべく無意識に呼びかけられているのである。
戦争さえも国家行事とする国ロシア
もちろん、このことはロシアだけに該当する話ではない。しかし、現代の世界で、単なる自衛のための軍隊を有しているだけでなく、戦争の歴史そのものを法的にも栄光として記憶し、事実上の国教である正教会によって正当化し、国家行事として華々しく祝い、実際の戦闘行為も躊躇なく行っている国はないのではないだろうか。
強いて言えば、冷戦のもう一方の側であったアメリカは、非常に好戦的な国である。冷戦中も冷戦後も、アメリカほど世界中で戦っている国はない。アメリカもまたアメリカを神に祝福された国だと考えている。強力な軍隊を持ち、軍隊に関する式典を大々的に行っている。
ロシアは歴史を通じて、戦争を繰り返しながら国家として成長し、その中で基盤的イデオロギーとしてナショナルで愛国的なロシアン・イデオロギーを形作ってきた。戦争とイデオロギーの相互作用によって、イデオロギーが戦争を正当化し、戦争がイデオロギーの実践として戦われた。
このようなロシアを戦争から引き離すことは容易ではないだろう。そのためには、それを可能にするような新たな国際秩序観――それは国連改革を伴う国連中心主義かもしれないし、プーチンの言うような大国政治かもしれない――を少なくとも大国間で共有し、その秩序を安定的に実現するための現実主義的で賢慮に基づく外交(必ずしもビジネスではなく)を行う必要があるのであろう。
関連記事:
専制権力で繁栄と力と栄光へ導かれたロシア国民
ロシア国民が持つロシアン・イデオロギーの正体
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら