明治政府内で「台湾、撃つべし」という声はむしろ少数派だった。琉球を長く支配下に置いていた薩摩藩の出身者が主であり、多くの者は外国との摩擦を恐れて、反対の声を上げた。反対派の代表的な人物が、木戸孝允である。
江藤を処刑した直後の4月17日、大久保が台湾への派兵を進めると、木戸は激怒。江藤をさらし首にしたことにも触れて、こう激しく批判した。
「内治優先の舌のかわかぬうちに外征の師を出すというなら、そのまえに梟首(きょうしゅ)に処した江藤の首をつないで、征韓派に謝罪してから決行せよ」
大久保に反発した木戸は4月18日に辞表を提出。参議を辞職してしまう。明治政府はいったん派兵の中止を決めたが、西郷従道はそれを無視。長崎に待機していた征討軍を台湾に向かわせたのである。
本来ならば、大久保は西郷従道の暴走をとがめて、兵を引き返させなければならなかった。だが、ここは腹をくくろうと、大久保は考えた。西郷従道の暴走を事後承認し、そのまま台湾出兵を進めることにしたのである。
責任を一身に背負って台湾へ
大久保からすれば、朝鮮への派遣に反対したときとは、まるで状況が違っていた。今や不平士族の暴動は各地で起きており、しかも西郷隆盛はもう政府にいない。
また、同時期に大久保は、かつての恩人である薩摩藩の国父、島津久光とも激しく対立していた。近代化から逆行する久光の意見は退けるほかなかったが、そのことで怒りを買ってしまっていた。
故郷も含めて周りが敵だらけのなか、西郷隆盛の弟という立場でありながら、大久保のもとにとどまったのが、西郷従道だった。従道の独断を「暴走」ととらえられれば、大久保の求心力にも影響が出る。なんとしてでも、この台湾外征をうまく着地させなければならない。
「自分が決着をつけるしかない」
佐賀の乱でもそうだったように、大一番には自ら現場にあたるのが、大久保のやり方だ。大久保は「大難事であり、心決した」と日記に記している。
西郷従道が率いる日本軍が台湾を制圧すると、当然、清国は黙っていなかった。6月4日、清国からの抗議が外務省に届く。
すると、大久保は自ら北京行きを志願。外政家として意外な手腕を発揮することとなる。
(第45回につづく)
【参考文献】
大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店)
勝田孫彌『大久保利通伝』(マツノ書店)
西郷隆盛『大西郷全集』(大西郷全集刊行会)
日本史籍協会編『島津久光公実紀』(東京大学出版会)
徳川慶喜『昔夢会筆記―徳川慶喜公回想談』(東洋文庫)
渋沢栄一『徳川慶喜公伝全4巻』(東洋文庫)
勝海舟、江藤淳編、松浦玲編『氷川清話』(講談社学術文庫)
佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫)
佐々木克『大久保利通―明治維新と志の政治家(日本史リブレット)』(山川出版社)
毛利敏彦『大久保利通―維新前夜の群像』(中央公論新社)
河合敦『大久保利通 西郷どんを屠った男』(徳間書店)
瀧井一博『大久保利通: 「知」を結ぶ指導者』 (新潮選書)
清沢洌『外政家としての大久保利通』 (中公文庫)
家近良樹『西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』(ミネルヴァ書房)
渋沢栄一、守屋淳『現代語訳論語と算盤』(ちくま新書)
安藤優一郎『島津久光の明治維新 西郷隆盛の“敵”であり続けた男の真実』(イースト・プレス)
佐々木克『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館)
松尾正人『木戸孝允(幕末維新の個性 8)』(吉川弘文館)
瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』(講談社選書メチエ)
鈴木鶴子『江藤新平と明治維新』(朝日新聞社)
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