「征韓論反対」の大久保利通「台湾には出兵」のなぜ 支えになっていた西郷隆盛の実弟・従道の存在

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事の次第はこうである。明治4(1871)年10月、那覇を出航した2隻の船が、防風によって台湾に漂流した。すると、66人のうち54人が現地の高砂族に殺害されてしまう。

台湾は事実上、清国が統治していたため、日本政府は清国に抗議したが、「責任は自分たちにはない」という回答が返ってきた。清国は台湾の住民を「化外の民」、つまり、中央政府の威令が行き渡らない蛮族によるものだと主張した。

すると、日本国内では、清国のそんな「責任逃れ」を逆手にとるような意見が打ち出される。台湾は清国が統治していると思ったが、そうではないというならば、日本が台湾と直接、問題を解決してよいということになる。たとえ、そのまま台湾を植民地にしたとしても、清国は文句を言えないはずだ――。

そんな議論が継続して行われるなかで、一時期は征韓論の盛り上がりによって、台湾出兵は下火になった。だが、西郷隆盛の朝鮮への派遣が叶わなくなったことで、台湾出兵を求める声が再び上がり始めたのである。

大久保利通は止めにいくも一歩間に合わず

そんな事態を受けて、大久保は大隈重信とともに明治7年2月に台湾への外交的な方針を固めている。そこで「琉球人民の殺害に対する報復は日本政府の義務」としながらも「討伐は清国の抗議を招きかねない」とし、その場合は「和平をもって対応する」と決めた。

外務省がより強硬な台湾出兵を策定していたことを踏まえると、現実主義の大久保らしい妥協点の探り方といえよう。大久保が「佐賀の乱」の討伐に出発する前の閣議では、台湾には、兵を率いた「問罪使」(もんざいし)を派遣することが決定された。領土への進出ではなく、あくまでも相手の罪を問いただすための出兵で意見はまとまった……はずだった。

大久保は「佐賀の乱」の対応に自らあたりながら、大隈重信と西郷従道に台湾出兵の準備を進めさせている。ところが、大久保が佐賀に行っている間の閣議で、出兵の目的が広げられてしまう。台湾の領有も視野に入れた、大規模な出兵が行われることになったのである。

佐賀から帰った大久保が、新橋ステーションで伊藤と勝から聞かされたのは、そんな急展開した台湾出兵のことであった。西郷従道は、すでに鹿児島県で募った士族800人を含めた、約3600もの兵を率いて、東京から長崎へと向かったという。

大久保が「意外なこと」と驚くのも当然のことだ。なんとか出兵を延期させようと、大久保は長崎にかけつける。そして5月4日に大隈重信と西郷従道に会うが、すでに前日に兵は長崎から出航してしまったという。

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