33歳がんで逝った男が投じた闘病記への重い一石 2013年に消失した痕跡が2021年に復活した理由

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<昨日付の日記で病気の事実を書いた。数日間、日記がディレイしたのは、以前病気をカミングアウトしたときのような感じで、「ありのままの事実を読者に発表していいのだろうか?」と逡巡したからだ。
(略)
でも、実際に書いてみると、そのことによって気分がスッキリしたというか、何となく爽快ですらあった。これまでも、いろんな局面を迎えてはいろんな方法で対処してきた訳だけれども、日記を書くということが精神的な安定を得る唯一の手段である気すらする。
悲惨な状況も日記を書き続けることによって、単なる日常になってくれるような、単なる日記ネタの一つになってくれるような、そんな気がするからだ。>
(2004 April 04・29 Tue「それ以上でもそれ以下でもない」/『32歳ガン漂流エヴォリューション』)

翌月に三度目の入院となり、精密検査を経て膵臓にも腫瘍ができていることがわかった。息苦しく、咳をすると痛みが走る。膵臓あたりもひどいときは腫れぼったいような痛みと針で刺すような痛みが交互にくる。脳腫瘍のせいで片足が頻繁にけいれんするようになって久しい。薬で抑えきれない大きなけいれんが起きたら死に直結するとも説明を受けた。

<いよいよ、どうにもならなくなってきた。
オレはもうすぐ死ぬのだ。
それだけが唯一確実なことだ。>
(2004年5月14日「死亡遊戯」/奥山のオルタナティヴ日記/Internet Archive)

この状況で心の支えになっていたのは、文章を書くことだった。この頃、TEKNIXの日記に加え、書籍の刊行元である牧野出版が立ち上げたブログ「32歳ガン漂流エヴォリューション」も手がけるようになった。そして、しばらく後にはひそかに小説の執筆にも取りかかるようになる。

牧野出版のブログ「パブリデイ」で執筆したブログ版の「32歳ガン漂流エヴォリューション」(Internet Archiveより)

ライターや編集者として雑誌の取材記事を担当するのは次第に厳しくなっているが、心血を注いで書けるものには事欠かなかった。体調が悪化しても緩和ケア病棟への入院や山形にある実家に戻ることは拒み、荻窪にあるアパートでの暮らしにこだわった。身の回りの世話のために母をはじめとした家族にはずいぶん助けてもらったが、それでもやりたい生き方を優先させてもらった。

「死んでもいいから、本を出したい」

体調と検査の結果、主治医の説明から死が近づいてくる様子が嫌でも理解できる。不安や動揺は文章にしたくない。それでも死別を経験したときには、抑えきれないものがこみあげてくる。

2004年9月、入院中に病室でいがみ合っていた年上の男性が亡くなったと知ったとき、涙をこぼしたと正直につづっている。その翌月には、病院でよき先輩、よき友人として接してくれた男性「Sさん」の訃報に接した。Sさんの息子さんから葬儀会場と日取りを教えてもらったが、参列することはできなかった。

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