大河ドラマで存在感「梶原景時」怖すぎるチクリ癖 「鎌倉殿の13人」では中村獅童さんが好演
そこには、義経についてこう書かれています。
「平家を滅ぼしてからの義経殿は態度が大きくなってしまいました。皆、薄氷を踏むような思いで過ごしており、本心から義経殿に従っている者はいません。私が、義経殿にそれは頼朝様のお心と違うのではないですかと諫言しても、それがかえって仇となり、刑罰を受けそうです。
合戦が終わった今、義経殿のそばにいても仕方ないので、早く関東に帰りたいのです。義経殿は何でも自ら決め、頼朝様のお考えを守りません。義経殿に恨みをもっているのは、景時1人ではないのです」
何度も独断で物事を決める義経の態度に、景時の不満爆発といった感じですが、注目すべきは「義経殿に恨みをもっているのは、景時1人ではない」という点です。
確かに、後に義経は頼朝に対して、挙兵しますが、多くの武士たちは義経に加勢しませんでしたし、頼朝に対し、義経を庇う主張をした武士もいませんでした。『平家物語』においても、独断専行の義経の姿が描かれていますので、景時の讒言なるものは、まったくの根拠なきものということはできないように思うのです。
ですので、これについては、後世の「判官贔屓」の日本人からすると「景時め、義経を讒言して!」となるのかもしれませんが、当時の武士の中には、景時の意見に同調・納得するものもあったように感じます。
恩賞をもらおうとする武将に待ったをかけた景時
さて、景時の讒言と呼ばれるものは、ほかにもあります。『吾妻鏡』の1187年3月10日の項目には、土佐国の土豪・夜須行宗(やす・ゆきむね)と景時の口論が記述されています。
夜須行宗には、壇ノ浦の合戦のとき、平家方の岩国二郎兼秀、三郎兼末を生け捕りにしたという功績がありました。そこで、恩賞をもらおうと、その手柄を上申するのですが、それに待ったをかけたのが景時です。
景時は「あの合戦のときに夜須なるものはいなかった。岩国兼秀らは降伏してきたのだ。それであるのに、夜須は年月が経ったことをいいことに、策謀をめぐらし、偽りを申している」と主張したのでした。
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