大河ドラマで存在感「梶原景時」怖すぎるチクリ癖 「鎌倉殿の13人」では中村獅童さんが好演
それに対し、夜須は「あの戦のときは春日部兵衛尉と同じ船に乗っていた」と回答したので、春日を呼び出し聞いて見ると「もちろん、夜須と同じ船に乗っていました」との答えが返ってきました。
つまり、夜須の行動を見ていた証人がいた、夜須の言葉は正しかったとされて、夜須には恩賞が与えられることになったのです。一方、景時は讒言の罪により、鎌倉中の道路を作れとの罰が与えられました。
この逸話はどのように解釈するべきなのでしょう。恩賞を申請する立場の武士たちからしてみたら、景時の行動や発言は、かなりうっとうしいものであったはず。もらえるべき恩賞がもらえないのですから。
梶原景時は何を考えていたのか
では、景時の心理はどうだったのでしょうか。何かの理由があって、夜須への恩賞授与を妨害しようとしたのか。あるいは、夜須に対し、疑念を向けた可能性もあります。というのも、夜須が恩賞を申請したのは壇ノ浦の合戦から約2年が経過したころでした。
恩賞を申請するなら、もっと早いのが当然であるのに、なぜ今なのか。何か裏があるのではないか。夜須はうそをついて恩賞をもらおうとしているのではないか。そのようなこと、今後のためにもよくないと思ったのかもしれません。
ですが、それは恩賞が欲しい武士にとっては、余計なお世話。景時がこの「対決」で負けたことは、景時の名誉を傷つけたように感じます。
景時の讒言として有名なものには、畠山重忠に関わるものもあります。
1187年、重忠の代官が伊勢国沼田御厨において狼藉を働いたため、重忠は罰として千葉胤正(ちば・たねまさ)の預囚人になってしまいます。重忠は絶食、命の危険にさらされます。
それを聞いた頼朝は、重忠を赦免。重忠は釈放後、地元の武蔵国に帰ってしまいます(10月4日)。重忠の行動を怪しく思ったのが、景時でした。
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