大河ドラマで存在感「梶原景時」怖すぎるチクリ癖 「鎌倉殿の13人」では中村獅童さんが好演

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

景時はこの出来事から1カ月あまり経過した11月14日の夜、頼朝にこう伝えます。

「畠山重忠は、重い罪を犯したわけでもないのに、囚人として預けられたのは、大きな手柄を破棄されたのと同じだといって、武蔵国に引きこもり、反乱をしようと考えているとうわさがあります。しかも、一族がそろって、ともに国へ帰っているのも、そのうわさと話が合いすぎています。これを放っておくべきではないでしょう」

翌日、小山朝政、下河辺行平、結城朝光、三浦義澄、和田義盛らが集まり、重忠に使者を遣わして問いただすのがよいか、討伐軍を派遣するのがよいか、話し合いの場がもたれます。結果、重忠の人柄を信用し、まずは使者を派遣することになるのですが、この逸話も、景時の讒言として知られています。

御家人会議にも参加していない梶原景時

この話はどう考えるべきなのでしょうか。景時が言うように、重忠に謀反のうわさというものはあったかもしれません。前述のような出来事があり、地元に一族と共に引っ込んでいるのですから、よからぬうわさというものもあったでしょう。

だから、景時はこれを怪しみ、討伐してはいかがと頼朝に勧めるのですが、しかし、そこは、やはり、景時の勇み足だったというべきかもしれません。ほかの有力御家人との考え(使者派遣)とも一致していません。

景時は、ほかの有力御家人から浮いているようにも見えます。頼朝が召集した先ほどの御家人会議にも、景時の姿はありません。景時も参加させて、意見をぶつけ合うほうがいいようにも思うのですが、『吾妻鏡』にはそのとき、景時が参加したとも、討伐軍を派遣せよと言ったとも書かれていないのです。

景時は、頼朝と結びつき、暗にさまざまなことを言上することには長けていたのかもしれませんが、ほかの御家人と協調して物事を進めていく姿勢が欠けていた。そこが、景時が不幸な運命に陥っていく1つの要因だったのかもしれません。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

著者をフォローすると、最新記事をメールでお知らせします。右上のボタンからフォローください。

はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数
X: https://twitter.com/hamadakoichiro
 

この著者の記事一覧はこちら
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事