大河ドラマで存在感「梶原景時」怖すぎるチクリ癖 「鎌倉殿の13人」では中村獅童さんが好演
景時はこの出来事から1カ月あまり経過した11月14日の夜、頼朝にこう伝えます。
「畠山重忠は、重い罪を犯したわけでもないのに、囚人として預けられたのは、大きな手柄を破棄されたのと同じだといって、武蔵国に引きこもり、反乱をしようと考えているとうわさがあります。しかも、一族がそろって、ともに国へ帰っているのも、そのうわさと話が合いすぎています。これを放っておくべきではないでしょう」
翌日、小山朝政、下河辺行平、結城朝光、三浦義澄、和田義盛らが集まり、重忠に使者を遣わして問いただすのがよいか、討伐軍を派遣するのがよいか、話し合いの場がもたれます。結果、重忠の人柄を信用し、まずは使者を派遣することになるのですが、この逸話も、景時の讒言として知られています。
御家人会議にも参加していない梶原景時
この話はどう考えるべきなのでしょうか。景時が言うように、重忠に謀反のうわさというものはあったかもしれません。前述のような出来事があり、地元に一族と共に引っ込んでいるのですから、よからぬうわさというものもあったでしょう。
だから、景時はこれを怪しみ、討伐してはいかがと頼朝に勧めるのですが、しかし、そこは、やはり、景時の勇み足だったというべきかもしれません。ほかの有力御家人との考え(使者派遣)とも一致していません。
景時は、ほかの有力御家人から浮いているようにも見えます。頼朝が召集した先ほどの御家人会議にも、景時の姿はありません。景時も参加させて、意見をぶつけ合うほうがいいようにも思うのですが、『吾妻鏡』にはそのとき、景時が参加したとも、討伐軍を派遣せよと言ったとも書かれていないのです。
景時は、頼朝と結びつき、暗にさまざまなことを言上することには長けていたのかもしれませんが、ほかの御家人と協調して物事を進めていく姿勢が欠けていた。そこが、景時が不幸な運命に陥っていく1つの要因だったのかもしれません。
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