哲学者デカルトは数学の革命「座標」を生み出した 代数と幾何学を融合、図形を数式で記述する

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(イラスト:『数学者図鑑』より)

要するに、座標を使って図形を数式で記述し、代数的な計算で幾何学の問題を処理したことになる。たとえば、半径rの円で、その中心が原点O(オー)にある場合、それは右図のように描かれる。これを代数的には、x2+y2=r2 と表わせる。

直線は1次方程式で表わせ、曲線は2次方程式や3次方程式などで表わすことができる。さらに発展し、積分を使えば曲線の面積も容易に計算できるようになった。今ではあたりまえのように使っている座標だが、これは数学を大きく発展させる原動力となったツールの誕生といえる。

冬の早朝が寒すぎて死去

1637年に発刊された『方法序説』は、それまでの権威を否定し、「真理を見出すための方法」をデカルトが説いたもので、ヨーロッパ中で大絶賛された。有名な「我思う、ゆえに我あり」はデカルトの達した、思想の独立宣言とされる。

しかし、栄光のデカルトに暗雲が垂れこめ始める。無神論者であるという非難で裁判にかけられて敗訴したのだ。こうしてフランス、オランダに居場所を失ったデカルトは、最後の地へと向かうことになる。

数学者図鑑
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スウェーデンの若い女王クリスティーナは数カ国語を話し、文学・芸術に造詣が深く、そのためかヨーロッパ大陸の哲学者デカルトに心酔していた。そこでデカルトに対し、1641年から3度にわたってスウェーデンへ招聘、家庭教師となることを要請したが、そのたびにデカルトは丁重に断っていた。

しかし、迎え用の軍艦まで用意されては(馬車なら断れた?)さすがのデカルトも断りきれず、クリスティーナの要請を受け入れることとなった。これがデカルトにとって命取りになるとは、そのときは考えることもできなかった。

クリスティーナの家庭教師として、1649年10月にスウェーデンに赴いたデカルトだが、翌1650年1月から、クリスティーナはデカルトに対して毎朝5時~6時に講義することを要求。それまでは11時になってやっとベッドから起きてくる生活をしていたデカルトは、スウェーデンの真冬の寒さに対応できず、翌月の2月11日にこの世を去ったのだった。

本丸 諒 サイエンスライター

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ほんまる りょう / Ryo Honmaru

横浜市立大学卒業後、出版社に勤務し、サイエンス分野を中心に多数のベストセラー書を企画・編集。独立後、編集工房シラクサを設立。サイエンス書を中心としたフリー編集者としての編集力と、「理系テーマを文系向けに<超翻訳>する」サイエンスライターとしてのライティング技術には定評がある。日本数学協会会員。著書(共著を含む)に、『意味がわかる微分・積分』(ベレ出版)、『数と記号のふしぎ』『マンガでわかる幾何』(SBクリエイティブ)、『統計学はじめの一歩』(かんき出版)、『文系のための統計学の教科書』(ソシム)、『すごい! 磁石』(日本実業出版社)などがある。

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