哲学者デカルトは数学の革命「座標」を生み出した 代数と幾何学を融合、図形を数式で記述する

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知的好奇心は旺盛だが、小さい頃から身体の弱かったデカルトに対し、ラ・フレーシュの王立学校(デカルトが10歳~ 18歳のとき)の校長は、「朝は好きなだけ寝てよい、教室に出てこなくてもよい」という特別な許可を与えた。デカルトはこの朝寝の習慣をずっと続け、その時間がデカルトにとって思索の源泉になった。また、生涯の友人メルセンヌとはこのラ・フレーシュで出会い、その後、デカルトが数学者と手紙をやり取りする際、数学者メルセンヌを通して文通することになった。

(イラスト:『数学者図鑑』より)

ラ・フレーシュを卒業後、デカルトは勉強面ではギリシア数学(幾何学)に力を入れていたが、しだいに身体が強くなってきたこともあってフェンシングに熱中することになった。そしてパリに移住して酒やギャンブルに浸ったが、フェンシングの腕前を試すため軍隊に入り、ボヘミアの首都プラハの攻防戦などに参加した。その後、ある街で昔の恋人に偶然会い、その求婚者から決闘を申し込まれたが、デカルトの剣が相手を圧倒したという(殺さなかった)。

江戸時代の末期に生きた絵師・葛飾北斎は、生涯に93回もの引っ越しをしたことで知られるが、デカルトも北斎に負けず劣らずの引っ越し魔だった。ラ・フレーシュ卒業後のパリで何度も住まいを移したが、軍隊を除隊後も、カトリック優勢のフランスを嫌ってオランダへ向かったり、ガリレオ裁判の様子を聞いて住まいを10回以上、変えている(逃げている)。これはデカルトが「太陽中心の惑星運動」を記した書籍の発刊を控えていたためだとされる。

数学を大きく発展させる原動力となった座標

ある夜、デカルトは天井にいるハエに気づき、そのハエの位置を考えているときに「座標」を考えついたといわれている。おそらく、ハエの話は後世のつくり話にすぎないだろうが、x軸、y軸の2軸で位置を表わす座標の発明は「数学革命」ともいえる画期的なものだった。

「座標の発明」の何が画期的だったのだろうか。それまでの数学といえば、図形を扱う「幾何学」と、2次方程式や3次方程式などを扱う「代数学」の2つに分かれていて、それぞれは別々の数学と捉えられていた。

ところが、座標の上に円や直線などを引き(これは幾何学)、それらを数式で表わせたことから(こちらは代数学)、2つの数学分野を融合させることに成功した。これを座標幾何学とか、解析幾何学と呼んでいる。

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