源平の戦局変えた「源義経の凄い奇襲」意外な真相 平家を大混乱に陥れた「鵯越の逆落とし」
それによると、義経はまず三草山を落とし、次に一ノ谷を落としたとある。そして、源範頼は大手より、福原に攻め寄せたという。2時間もかからずに、これは攻め落とされた。多田行綱が山方より攻め、真っ先に山手を落とした。これが『玉葉』の一ノ谷合戦に関する記述である。
ここから見えてくるのは、義経は一ノ谷口を攻めてはいるが、鵯越の逆落としをしていないということだ。山の方から平家軍に攻め寄せているのは、多田行綱という武将である。多田行綱は摂津源氏であったが、もともとは平家に仕えていた。しかし、このときは源氏に味方していたのだ。
日記『玉葉』からわかることは、一ノ谷合戦の鵯越の逆落としに相当するものは、多田行綱がやっていたということ。しかも、この鵯越、鹿しか通れないような断崖絶壁の険しい獣道のように思われているが、実はそうではない。山中の間道ではあるものの、福原に至る重要ルートだったのだ。
福原周辺の地理をよく知っていた多田行綱
摂津源氏である多田行綱は、福原周辺の地理をよく知っていた。よって、山の手の攻撃を任されたのだろう。その行綱が先ず山間部から平家軍を攻撃。これによって、平家軍は動揺し、そこを義経と範頼が東西から攻撃を加えた。だから平家は敗れたとみることができるだろう。
鵯越の逆落としをしていないからといって、義経の軍事的評価が下がるということはない。ただ、鵯越の逆落としという、小説や時代劇、大河ドラマで何度も描かれてきた見せ場のシーンが本当はなかった可能性が高いことを残念に思う人もいるだろう(かくいう筆者もそうであるが)。
以上のことから、義経軍による鵯越の逆落としは、後世の創作の可能性が高い。『玉葉』は源平争乱期における一級史料と言われており、信用するに足りる。
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