「台湾で出会った女性に『私の実家は貧乏で、病院に行けなくて死にそうな思いをした。だから、付き合うのは絶対にお金持ちがいい』という話をされ、身の処し方を考えたんですね」
なんとも独特な理由だが、社会に出る決心につながったのだから面白い。
大学時代から、働くことへの恐怖心をひとり募らせていた牧田さんだったが、いざ働いてみると、自分が「仕事ができる側」の人間であることに気づいたという。
「さすがに1年目は覚えることも多くて怒られることもありましたが、その後は仕事ぶりを評価してもらえるようになり、給料も月18万から25万円に上がりました。語学力と、旅の経験が活かせたんです」
実際問題、異国の地で農業ボランティアをするより、そりゃあ楽だろう……というツッコミはさておき、20代前半から続いた根無し草のような生活も終わりとなれば、親御さんも安心したに違いない。
「人生のレール」への違和感再び
だが、牧田さんの胸には、学生時代に感じていた、「レールの敷かれた人生への違和感」が再び訪れる。
「年収は300万円ぐらいでしたが、カツカツってほどではなく、むしろ業務のわりに多くもらえていたと思います。でも当然裕福ではない。結果、『この生かさず殺さずの額で、せわしない生活を日本で送るのが、本当に幸せなのか?』と思うようになったんです。
以前の暮らしは、3カ月くらい頑張って働いた後は基本的に自由だったし、キツいことも多い分、密度も濃かった。それと比べると、会社員生活は味気ないし、現実的に考えて会社の給料もそう簡単に上がりそうにない。加えて自分には、9時から18時まで拘束されるのは地味につらかった。
振り返ると、20代前半の3年間は20年分くらい生きた感覚なんですが、会社員として働いた2年間は密度的に3カ月分ぐらいでしたね」
2年間勤めた会社を退職した牧田さんは、東南アジアを中心に3年で5カ国8地域を放浪。
しかし、今度は無職ではない。会社員時代に培ったスキルや人脈を活かし、フリーランスのエンジニアとしての仕事を受注するようになったのだ。
当初1年ほどは月5万円ほどの収入だったが、SNSを介して出会った台湾のWEB制作会社から安定して仕事を依頼されるようになり、ここ2年ほどは安定して月に40万円ほどを稼ぐという。年収は500万円程度で、東京時代よりもはるかに高い。
「この1年ほどはタイの田舎に拠点を置いていますが、物価も安く、経済的にかなり良い暮らしができます。
その一方で、自分の中で『幸せとは?』とか『どんな生き方をしたい?』など、今までずっと抱えてきたモヤモヤへの自分なりの答えが固まっていったのが大きかったと思います。仕事が暇だった頃に、名著と呼ばれるような本をキンドルで200冊ぐらい乱読していたんですよ。
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