農業ボランティアでは英語の勉強も兼ねて、アメリカ・ニュージャージーにも滞在したこともある。それまでの国内のホテル派遣や農業ボランティアでは外国人スタッフも比較的多かったそうだが、「大学受験でも英語は苦手で、英語力はほぼゼロの状態」だったというから、すごい行動力だ。
「アメリカの田舎は普通の家でも何ヘクタールという庭があって、その敷地を使って家畜を飼ったり、野菜を栽培したりしているんです。僕のホスト夫婦も、揃って本業は名門校の教師でした。だいたい午前中くらいで仕事が終わって、趣味で農業やったり、鹿を狩ったり、アクティブなインテリ夫婦でしたね」
台湾から帰国、会社員になるが……
一般的にアメリカという国に親しみや憧れのような気持ちを抱いている日本人は少なくないが、牧田さん自身は大きなギャップを感じたという。
「いろんな海外の中でも日本人にはキツい場所だと思うようになりました。英語ができない人に冷たいというし、土地柄などもあると思いますが、少なくとも僕には合わなかったです。
初対面でいきなり『私たちは差別しない』と宣言されたり、あとは、農作業でハードワークさせるわりに食事がずっと少なかったのもツラかった。ホストのアメリカ人夫婦、昼食がポテトチップスなくせに、夕食のお皿も超小さいんですよ。『この人たちはきっと光合成してて、それをエネルギーにして動いてるんだ』とわりと真面目に思ってましたね。
あれ以来、『ネットの情報より、自分の目で確かめたほうが確実』と思うようになったし、アメリカのことが少し苦手になりました」
アメリカから帰国後も、ほぼ3カ月刻みで北海道から九州まで日本全国を周り、南米のボリビアやアルゼンチンにも足を運んだ。親には定職に就くように言われていたが、無視していたという。
「南米への飛行機代も片道10万円くらいだし、ホテル派遣で働けば3カ月で60万くらいは貯まるので、一応、経済的には成り立っていました。かと言って、そんな生活が将来ずっと続けられると考えていたわけでもないんですけど。“自分探し”的な面もなくはないです。
ただ、どこかへ向かって自分が成長しているみたいな感覚もなく、普通にこのまま生きていけたらいいなと思っていました」
しかし、台湾で3カ月間の語学留学後、牧田さんは26歳で東京のシェアハウスに定住。外国人向けの不動産会社の求人を見つけ、正社員として就職する。いわゆる“職歴”はなかったが、ホテル派遣の経験や語学力を見込まれたそうだ。
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