アントニオ猪木「ソ連に仕掛けた闘魂外交」の裏側 あのモハメド・アリ戦はKGBでも「伝説」だった

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橋本真也は零下10度でもカメラを意識してか上半身裸になってポーズを取り、モスクワっ子を驚かせていた。長州力はクレムリンのある赤の広場に着くと、やたらとビデオカメラを回していたが、寒すぎてバッテリーが低下してしまい困り顔になっていた。

12月31日、試合会場を埋めたモスクワっ子は初めて見ることになる生のプロレスに興味津々だった。

メインイベントで猪木&チョチョシビリがマサ斎藤&ブラッド・レイガンスに勝利すると、観客はリングに上がって来て猪木にサインを求めていた。モスクワ大会は大成功に終わった。

猪木が作家・佐藤優さんに伝えた言葉

大会終了後、レーニン運動公園内のレストランでは年越しの宴が催された。レスラーやイベント関係者も参加して、国家スポーツ委員会の面々も笑顔だった。

バグダーノフ将軍夫妻も猪木のところに近づいてきて、大会の成功を祝った。ウォッカでの乾杯が繰り返され、それは年が明けても続いた。さすがに酔ったのか、コサックダンスを踊る猪木の足が少しもつれている。その場では、誰もが陽気だった。

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議員時代の猪木のアテンドを任されていたのは、後に作家として活躍するモスクワの日本大使館で3等書記官をしていた佐藤優さんだった。ある日、猪木は佐藤さんにこう言ったという。

「役に立てるならば、俺を使ってくれ。あなたはロシアの地べたをはいつくばって情報を集めているようだから、きっと俺を上手に使うことができるよ」

佐藤さんは、この猪木の言葉を実行に移した。佐藤さんには、会いたい人物がいた。ボリス・エリツィン大統領の側近に、シャミール・タルピシチェフ・スポーツ担当大統領顧問がいた。佐藤さんが「アントニオ猪木があなたに会いたいと言っている」と伝えると、タルピシチェフはすぐにOKを出した。

エリツィン大統領の執務室の隣が彼の部屋で、それから佐藤さんは〝クレムリンに出入りができる日本人〟になったという。「猪木」という名前の効力だった。

これが猪木ルートである。猪木ルートというのは漠然としていて、知らない人にとっては奇異に映るかもしれない。だが、本当はこのルートを使わない手はないのだ。

北朝鮮も同じである。「俺を使ってくれ」と猪木自身が言っているのだから。

原悦生 写真家

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はら えっせい / Essei Hara

1955年、茨城県つくば市生まれ。早稲田大学卒。スポーツニッポンの写真記者を経て、1986年からフリーランスとして活動。16歳の時に初めてアントニオ猪木を撮影し、それから約50年、プロレスを撮り続けている。猪木と共にソ連、中国、キューバ、イラク、北朝鮮なども訪れた。サッカーではUEFAチャンピオンズリーグに通い続け、ワールドカップは1986年のメキシコ大会から9回連続で取材している。著書に『猪木の夢』、『Battle of 21st』、『アントニオ猪木引退公式写真集 INOKI』、『1月4日』、サッカーの著書に『Stars』『詩集 フットボール・メモリーズ』、『2002ワールドカップ写真集 Thank You』などがある。AIPS国際スポーツ記者協会会員。

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