戊辰戦争、3倍の敵圧倒「西郷と大久保」何をした? 開戦前からしたたかな準備、慶喜は敗戦後逃亡

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徳川家を武力で倒さない限りは、結局、世の中は何一つ変わらない。2人が藩内から孤立しながらも、徳川家を追い詰めてきた理由はそこにある。

だが、朝廷からすればそこまで腹は据わっていない。薩長の働きかけに応じて「王政復古の大号令」を出しておきながらも、徳川家を完全に敵に回すとなると、恐怖が先に立った。それも無理はないだろう。旧幕府軍の兵が約1万5000に対して、薩長が連合した新政府軍は5000にも満たない。兵力の差は歴然としていた。牙をむいた強大な徳川家に、朝廷は大いに揺らぎ、岩倉具視もまたその渦中にいた。

岩倉はあくまでも慶喜の上洛を望んでいた。新政府に慶喜を招いたうえでの新しい政治体制を目指そうとしていたのだ。そんな岩倉に考えを改めるように必死にアプローチしたのが、大久保である。

大久保が岩倉に訴えたのは、旧幕府軍を「朝敵」にするべく朝命を出してほしい、というものだ。徳川家を敵に回したくない岩倉を、正反対の方向に説得するのは容易なことではない。それでも大久保は諦めない。岩倉を奮い立たせるべく、懸命に言葉を重ねていく。大久保の日記には、こんなふうに書かれている。

「岩倉公え参殿、断然朝決あらせらるべく必死(に)言上」

開戦の一報に喜んだ西郷

最初の砲声は、まさに大久保が岩倉を説得していた3日に発せられることとなった。このとき、西郷は京都の薩摩藩邸で作戦全般を指揮していた。開戦の第一報に、西郷はこう喜んでいる。

「鳥羽一発の砲声は百万の味方を得たよりも嬉しい」

その言葉どおりに、鳥羽・伏見での衝突の結果が事態を大きく動かすことになる。

戦闘が始まると、兵力では圧倒的に有利なはず旧幕府軍が、思わぬ苦戦を強いられた。大軍であるがゆえに、命令が届きにくく、失敗ばかりを重ねたのである。各部隊はバラバラに動き、まるでまとまりがない。まさに「烏合の衆」の様相をあらわにした。

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