意に反して薩摩藩と対峙することになった慶喜。朝廷に向けて奏聞書を書き、薩摩藩の罪状を訴えている。「討薩の上表」と呼ばれているもので、次のようなものだ。
「12月9日からの薩摩藩のふるまいは、朝廷の真意とは思えない。島津家の好臣どもの陰謀に違いない。しかも浮浪の徒を語らって江戸で押込強盗を働くなど『天人ともに憎むところ』である。好臣の引渡しを求める。朝廷からその御沙汰がない場合は誅戮を加える」
怒りに満ちた文章だが、後の慶喜の記憶はあいまい
薩摩藩への激しい怒りに満ちた文章である。慶喜もほかの旧幕臣たちと同様に、薩摩藩を打倒しようと気持ちを改めたのだろうか……と思いきや、どうもそうではないらしい。明治維新後、慶喜は当時を振り返って「討薩の上表」について、まるで他人事のように述べている。
「確か見たようだが、もうあの時分勢い仕方がない……。とうてい仕方がないので、実はうっちゃらかしておいた」
起草者として名を連ねているにもかかわらず、「確か見たようだ」とあいまいである。そして「修正のしようもないので、ほったらかしておいた」とずいぶん投げやりだ。
どうも慶喜は草稿の推敲を西周など第三者に頼んだようである。起草はしたものの、ずいぶんと過激な文章をあちこちから追加されて、辟易した可能性は高そうだ。それどころか、起草すらしておらず、最終段階で署名をしただけなのかもしれない。
そんな“作者不明”の「討薩の上表」が、大阪城内の旧幕府軍を大いに盛り立てた。鳥羽街道と伏見街道を埋め尽くしながら、1万5000にも及ぶ旧幕府軍は行進していく。運命の日が近づいていた。
最初の発砲は、薩長両藩兵によるものだったとされている。慶応4年1月3日午後3時ごろ、砲声が響きわたり、鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切られた。会津藩、桑名藩の兵を先鋒とする旧幕府軍と、新政府軍が全面対決することとなった。
大久保と西郷からすれば、願ってもない展開である。
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