そもそも司令部は京都の土地勘がなく、大軍を効果的に配置することができなかった。どうもこれほど本格的な軍事衝突には至らずに、入京できると踏んでいたふしがある。威勢だけはよかったが、命を賭けて戦う覚悟のある兵は少なかったようだ。旧幕府軍で戦闘意欲が高く、最後まで踏ん張ったのは、会津藩兵くらいであった。
西郷は開戦を喜びながらも、兵力の差から不安はあったのだろう。戦況が気になって、伏見まで戦況を見に行っている。西郷がその目で自分たちが優勢だと知ると、早速、大久保に手紙で知らせている。
勝利の第一報が届くと、朝廷の雰囲気はがらりと変わる。何かと嫌がられていた大久保のもとに公家たちが次々と訪問し、面会を求めたという。
大久保が頼んで準備した錦旗の効果
大久保は、そんな調子のよい公家たちにあきれる暇もなく多忙を極めた。なにしろ前線と連絡しながら諸藩兵を配備し、各藩への司令も行わねばならない。4日の日記には「昨夜、一瞬も座ることができなかった」と書いているほどだ。
当時の大久保のことを熊本藩家老の米田虎雄はこう話している。
「戊辰戦争のときでも西郷は鳥羽で戦って武勲を挙げた。しかし、京都の御所の中はすこぶるグラグラしたもので、あのとき大久保さんがビッシリ座り込んで動かなかったからこそ、西郷も思うように働くことができた」
グラグラしていたのは、朝廷だけではなかった。どちらにつくべきかと日和見主義の藩も多かったが、大久保が岩倉に頼んで準備した錦旗が掲げられると、みな新政府軍になびいていった。
そして慶喜はといえば、「朝敵」とされたことに大きなショックを受ける。総大将の身でありながら、慶喜は1月6日に大阪城から逃亡。側近や老中、会津藩主の松平容保や桑名藩主の松平定敬らも巻き込んで、開陽丸で江戸へ退却してしまった。
ここに至るまでの大久保の道のりを振り返ると、挫折や失敗のほうが多い。思い通りにいかないことのほうが多いのが人生だとつくづく思う。
それでも大久保は絶望することなく、立ち上がり続けた。何度跳ね返されても、信念を曲げずに、全身全霊でことにあたった。そんな大久保の決して諦めない姿勢が、ついに大きな壁をつき崩し、新しい時代の扉を開くこととなった。
(第25回につづく)
【参考文献】
大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店)
勝田孫彌『大久保利通伝』(マツノ書店)
松本彦三郎『郷中教育の研究』(尚古集成館)
西郷隆盛『大西郷全集』(大西郷全集刊行会)
日本史籍協会編『島津久光公実紀』(東京大学出版会)
徳川慶喜『昔夢会筆記―徳川慶喜公回想談』(東洋文庫)
渋沢栄一『徳川慶喜公伝全4巻』(東洋文庫)
勝海舟、江藤淳編、松浦玲編『氷川清話』 (講談社学術文庫)
佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫)
佐々木克『大久保利通―明治維新と志の政治家 (日本史リブレット)』(山川出版社)
毛利敏彦『大久保利通―維新前夜の群像』(中央公論新社)
河合敦『大久保利通 西郷どんを屠った男』(徳間書店)
家近良樹『西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』 (ミネルヴァ書房)
渋沢栄一、守屋淳『現代語訳論語と算盤』(ちくま新書)
鹿児島県歴史資料センター黎明館 編『鹿児島県史料 玉里島津家史料』(鹿児島県)
安藤優一郎『島津久光の明治維新 西郷隆盛の“敵"であり続けた男の真実』(イースト・プレス)
萩原延壽『薩英戦争 遠い崖2 アーネスト・サトウ日記抄』 (朝日文庫)
家近良樹『徳川慶喜』(吉川弘文館)
家近良樹『幕末維新の個性①徳川慶喜』(吉川弘文館)
松浦玲『徳川慶喜―将軍家の明治維新増補版』(中公新書)
平尾道雄『坂本龍馬 海援隊始末記』 (中公文庫)
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