「ちょうどそのころ、近所のお寺のご住職がお亡くなりになって、当時70歳くらいの奥様が跡を継いだんです。夏のある日、そのお寺のほうへ犬の散歩に行ったら、女性住職がお庭で水撒きをしていらして。彼女はビーチサンダルを履いた素足に、真っ赤なペディキュアをしていたんですよ。手もおそろいの赤いネイルで、〝えっ、お寺のご住職がこんな爪を!? 〟と衝撃を受けました。もちろん仏儀のときはしないんでしょうけど、〝お休みのときは爪を彩って、リラックスして楽しんでらっしゃるんだな。お坊さんでもこういうおしゃれをしてもいいんだ〟って、胸がドキドキしたことをおぼえています」
大胆で、妖艶で、どこか可愛らしくもある住職の赤い爪は美智子さんの脳裏に焼き付いた。聖職者であり、自分と同じ高齢の未亡人でもある彼女が堂々と美を手なずけているさまを見て、うずうずと焦りのような気持ちも湧いてきたという。
「私が〝ネイルなんかしたら、あの人、ご主人が亡くなったのに……って言われちゃうわ〟なんて言うと、娘は〝お母さんは誰の目を気にしてるの? もしそんなことを言う人がいたら私が黙らせてやるから連れてきなよ!〟って。誰がってわけじゃないし、そう言われたら口ごもるしかないんですけど」
新たな美へ手を伸ばしたくとも、美智子さんが二の足を踏んだのはなぜだったのか。もじもじする彼女を促すと、美智子さんは「……滑稽だと思われるのがこわかったんです」とつぶやいた。
高齢者が美を求めたら滑稽だと思われる
「ずいぶん昔の話になりますが、私は小田和正さんのファンでした。透明感のある美しい歌声が本当に好きで、繰り返しCDを聴いては心の慰めにしていたんです。でも、あるきっかけですっかり彼が苦手になりました」
突然飛び出した小田和正氏の名前。氏は、彼女の心にどんな影響を及ぼしたのだろう。
「もう内容はよく覚えていませんが、ドキュメンタリー番組か何かで、小田さんが一般女性たちをババア呼ばわりしたんです。〝あんなところにババアがいるなあ!〟みたいに。一度だけでなく何度も〝ババア!〟と言っていて、耳を疑いました。その女性たちは、身ぎれいな素敵なマダムだったのですが、そういうきちんとした方たちも高齢というだけで〝ババア呼ばわり〟されるんだと。きれいな歌声にすっかりだまされてきたけど、本心では高齢女性を見下すような人だったんだなと失望しました」
美智子さんは小田さんのライブに参加したことはないという。彼の麗しい歌声と毒舌のコントラストはファンの中では知れた話だそうだが、美智子さんには受け入れがたかった。と同時に、「結局、高齢者がおしゃれをしても〝ババアのくせに〟とバカにされてしまうんじゃないか」という怖さが胸に植え付けられたという。
美智子さんの胸奥には、滑稽だと思われたくないという意地と、軽やかに美を楽しむ女性への憧憬がないまぜになって、たゆたっていた。
その思いが、ふっと水面に顔を出す出来事があった。
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