箱根を制した青山学院・原監督の「仕事語録」 「僕は陸上の人というより、ビジネスマン」

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原監督は地道に選手指導を行いながら、足りないピースをかき集めた。それでも、簡単に“パズル”は完成しなかった。それどころか、大きなピンチもあった。監督就任時に「3~5年で箱根駅伝出場、8年でシード権獲得、10年で優勝を争えるチームにします」と大学側にプレゼンしたものの、3年目の予選会(2006年)で16位と惨敗。陸上部は解散の危機に迫られた。

それでも、原イズムは確実に浸透していた。当時の3年生が「最後の1年を原監督とやりたい」と大学側に直訴したこともあり、原監督のチャレンジが継続された。

翌2007年の予選会は11位と本戦出場にあと1歩のところまで迫ると、2008年には予選会を突破。箱根復帰2年目の2010年大会で早くもシード権を獲得した。その後は、大学ブランドもあり、徐々に全国トップクラスの選手も入学するようになった。

「就任11年目ですけど、本当にあっという間でしたね。苦労したのは最初の5年。箱根に出場するまで。何事も土壌作りが大変ですから。軌道に乗ってしまえばそうでもない。重い球が転がった感じですよ。

この数年間は案外ラクでした。特にこの1年間は1度も選手たちを怒ったことがない。他大学はマジメにやっているのに、オレみたいなやり方で優勝してもいいのかなと思うもん(笑)。朝食には毎日、差し入れのお菓子が出るんだよ。さすがに箱根の10日前からやめましたけど」

監督就任5年目に箱根出場、同6年目にシード権、同11年目に総合優勝。結果的には原監督が当初描いた筋書きどおりにストーリーが展開された。しかし、最初の数年はトライ&エラーの繰り返し。特に練習スタイルが確立するまでは、故障者が続出するなど、チームの足並みがそろわなかった。また営業時代に培った話術で、選手たちのハートもつかんできた。

「根性論だけでは今の学生はついてきません。緻密さと理屈が絶対に必要です。最初に方程式を示して、この練習はどんな目的で行うのか。そういうこともきちんと話します。また理屈だけでは男は動きません。オマエのためにとか、オマエが必要なんだ、という理由がないとダメですね」

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