事実、2014年11月には米国のメタルサイト「Metal Injection」に、BABYMETAL人気がメタル界で広がるのと同時に、人種差別的、性差別的、そして幼児性愛的侮蔑の言葉が寄せられていることを憂慮する“Can We Stop With The BABYMETAL Pedophilia Jokes?”という記事が掲載されました。
彼女らが打破したもの、「暗黙のうちの禁じ手」
BABYMETALに対する評価はメタル界でも分かれているようですが、それを踏まえたうえで、記事はBABYMETALを好むかどうかはそれぞれの問題だが、反感をこうした非難で表現することはよろしくないと主張しています。なかなか冷静な意見でしょう。
しかしなぜそこまでの拒否反応が出るのか、という疑問に対するひとつの説明として、齋藤教授の指摘にはうならせられるものがあります。欧米で正統派文化に対立するカウンターカルチャーとして発展してきたロックやメタルも、対立する価値観と別の部分では正統派の文化と意識を共有しており、つまりタブーも共有しているわけです。
つまり、世界のメタル界はBABYMETALのようなバンドを考えつかなかったのではなく、不道徳なものとして暗黙のうちに禁じ手にしていたというわけです。ですから、BABYMETALは、わかりやすく言うと、空気を読まない日本が「やっちまった」ということになります。
BABYMETALの「痛快」さ
ですが、こういう混乱が起きること自体が、BABYMETALの魅力を表しているともいえるのです。メタルの人ではない筆者でも、海外のライブ映像を見ると、多くのファンがフォックスサインをして、BABYMETALの3人の動きにあおられながら大きなモッシュを形成していくさまは、確かにファンがBABYMETALと形成するひとつの空間に酔っていることがわかります。この力は、文化的タブーを乗り越える力を持っているのかもしれません。それは、齋藤教授の別の言葉を借りれば、「痛快」ですらあります。
ただ、この痛快さは、逆接的に、それだけ私たちが外部から輸入された規範意識に抑圧されていることをも意味するのかもしれません。そして実は、この問題提起が、アイドルなんて立派なビジネスマンたる自分たちが気にすべきものではない、というありがちな規範意識につながっているとすれば、このコラムそのものに関係することでもあります。
この抑圧の裏返しとしての痛快さは、そのままマスメディアのBABYMETALへの注目として現れます。昨今の「クールジャパン」をテーマにしたニュースの取り扱いにも通じるものがあるかもしれません。Perfumeを雛形とする、「海外で人気」という話題を評価に変えて世の注目を集めていく戦略には、こうした日本の海外(欧米?)コンプレックスとでも言うべき心のあやがあることを忘れるわけにはいきません。
しかし、この「痛快」という言葉への評価はさておき、欧米が自ら生み出しえなかった新機軸をBABYMETALが形にしてみせることに成功したとすれば、それはすばらしいことだと筆者は考えます。なぜなら、それは世界のメタルファンにとって、またひとつ、新たなメタルのあり方の可能性が開けたと言えるからです。
BABYMETALというアイドル
筆者は、おそらく、BABYMETALというプロジェクトの核心は、アイドルがアイドルのまま、真剣にメタルをやる、というところにあるのだろうと考えており、かっこよく言えばその両者のフュージョン、ケミストリー、少し意地悪く言うとそのミスマッチの面白さを楽しんでいるだけなのだろうと思います。そういう意味では、これは確かにネタです。
よく事情のわからない欧米のメタルファンがBABYMETALをれっきとしたメタルだと勘違いしている向きもあるでしょう。この欧米の反応を経由してBABYMETALを知った日本人に対しても、ネタとしての性格がそぎ落とされて理解されてしまう「コンテクストロンダリング」とでも言うべき現象が起きているかもしれません。しかし、これは「ネタ」です。「ネタ」を、音楽産業のプロフェッショナル達が誠意を込めて、全力で取り組んでいるだけのことです(いや、それ自体がすごいことなんですが)。
ですから、「METAL RESISTANCE」と唱えてみても実際にメタルそのものを革新しようと思っているかは疑問で、ましてや欧米の文化タブーを壊そうとか、ニッポンのアイドルはすごいと世界に知らしめようとか、そういう意識はからきしないのではないかと思います。
しかし、その戦略ゆえに、メタル界でBABYMETALはメタルなのか?という議論が起きることと同様に、BABYMETALはアイドルなのか?と論を立てることもまた可能でしょう。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら