「無駄な力み」を生んでしまう努力
ここ2回、少年マンガを題材に努力について語ってきたが、努力マンガにも弱点がないわけではない。
努力には、「無駄な力み」を生んでしまうという危険がある。
「力み」とは、身体と気持ちの強張りであり、いざという時に実力を発揮することができない。努力マンガを読みすぎて、力みすぎになっては元もこうもない。
かなり昔の話になるが、日本サッカーがFIFAワールドカップを目指している頃、ドーハの悲劇という事件があった。1993年のことなので、すでに20年以上前の話である。ワールドカップ出場権をかけたイラクとの試合中、ロスタイムにイラク代表の同点ゴールが入り、予選敗退となった試合である。この時、多くの人が「気合が足りない」「緊張感がない」という批判をしたのだが、私は逆なのではないかと思った。
要するに、力みすぎだったのではないか…。
90分を緊張し続けられる人はいない。だから、ここぞという時に力み、ほかの時間は弛緩しておいたほうがよい。良い弛緩ができない人は、肝心な時に集中できない。日本チームは、力が入りすぎで、とうとう肉体の限界を超えてしまったように見えた。
まあ、素人の判断なのであるが、少なくともプロと呼ばれる人たちが単に気合いだけでどうにかなるとは思えない。
そもそも特にスポーツのことになると、根性と気合という体育会系のイメージがかなり強調されてしまう。努力もまた、そのまま「気合を入れることだ」と意訳されてしまうと、結果的には努力の成果はない。
前回までは、この問題にあえて触れてこなかった。努力が単なる力みであったらなら、努力論は成立しない。上級者向けには、新しい努力論、すなわち「ネオ努力」を展開すべきなのであろう。
弛緩と緊張の間の躍動
力みの問題とその解決を圧倒的な身体描写で描いたマンガに、井上雄彦著『バガボンド』がある。
このマンガは、剣豪、宮本武蔵を主人公にした長編マンガである。剣士として、さらに人間として成長する過程が描かれている。
もともと、体格と野生のセンスに恵まれた武蔵は、最初からある程度強かったのだが、武蔵には成長の壁があった。彼は、力むことを捨てられなかったのである。京都に出て吉岡清十郎と対決した武蔵は、はじめて自分の弱さを認識する。
その後、槍術の胤舜(いんしゅん)、柳生での石舟斎との精神的対決、宍戸梅軒との死闘を経て、武蔵は強くなっていった。そして、再度、京都にて吉岡清十郎との合まみえるのである。
勝負の前、武蔵は自分の剣を次のように語り、自己を批判する。
「入れ込むほど 体は硬くなる 剣は遅くなる 腕ばかり動いて剣は動かねえ」
「戦いに臨むために─── その都度気持ちを入れ替えていた さあ戦いだと 血を逆流させねばなんほど 入れ込んでたってことか俺は チッ何かが間違っている」
この批判は、剣術はもちろんのこと、すべての仕事に当てはまるのではないか。我々は、さあ大きな仕事だと入れ込みすぎて、失敗を繰り返したりしてきたのではないか。
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