創業1444年!世界最古の企業「金剛組」長寿の秘密 「潰せば大阪の恥」とまで言われる技術力

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マスコミは、再建工事の中心となったよしゑの活躍を大々的に取り上げ、戦後にはテレビドラマ化された。

よしゑの活躍は五重塔再建にとどまらない。金剛組は第2次大戦中に会社存続の危機に直面する。第2次大戦中に経済統制が強化され、「企業整備令」の公布により中小企業の整理統合が進められた。そして、金剛組も整理統合の対象になってしまったのだ。

伝統技術や宮大工の離散を恐れたよしゑは、役所と掛け合って軍事用木箱を製造することを条件に対象からの除外を勝ち取った。もし、時代の風に押されて整理統合を受け入れていれば、そこで1400年の歴史と伝統は潰えていただろう。

よしゑ以前の棟梁は、自ら現場に出向き指揮をしながら営業や社内管理など経営管理も行っていた。しかし彼女の登場により、現場の技術を知らない女性が棟梁になることで、技術と経営の分離が進んだ。

終戦後しばらくの間は仕事が少なかったが、1950(昭和25)年の文化財保護法の施行がきっかけとなって、神社仏閣の再建ブームが到来する。再建を担う宮大工を抱えている建設会社が少なかったため、金剛組には四天王寺以外の寺社から注文が殺到した。技術者集団としての面目躍如といったところだ。

会社の近代化、拡大路線へと舵を切った39代目

1948(昭和23)年、後の39代目当主となる利隆が入り婿として金剛家に入る。利隆は福井高等工業学校(現・福井大学)を卒業後、準大手ゼネコンの熊谷組に入社し、長姉の夫が金剛組で働いていたことが縁でよしゑの三女と結婚した。

利隆はよしゑと共に会社の近代化に取り組み、1955(昭和30)年に金剛組を「株式会社金剛組」に改組した。代表取締役社長のよしゑが資金管理を、専務の利隆が現場管理を担当した。

このころは組織だけでなく、工法にも大きな変化があった。戦後は火災対策が重視され、神社仏閣でも鉄筋コンクリート建築が流行する。金剛組もコンクリート施工を開始し、1954(昭和29)年には四天王寺の南鐘堂を手掛けた。鉄筋コンクリート工法でも、日本建築の優美さや木の暖かみを損なわない独自の工法を開発したのだ。

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