課長が「一国一城の主」として動く老舗の凄い底力 難事を切り抜ける判断力はこうして培われた

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兄に代わって本業を切り盛りしていた広三郎が、つねづね口にしていたのが「本業軽んずべからず」という言葉だったそうだ。

時代は昭和初期、1929年(昭和4)の米国株式市場の大暴落を発端とする大恐慌に世界中の国々が飲み込まれていたころのことである。日本経済も例外ではなく、大幅な輸出減の煽りで経営難に陥った瀧定は人員整理や海外支店廃止などの難しい判断を迫られた。

「本業軽んずべからず」とは、そうした非常に厳しい経営環境のなかで生まれ、苦難の時代を乗り越えるよすがとなった言葉だった。

健太郎は瀧定(大阪店)勤務時代に、当時、瀧定名誉会長だった大伯父・隆朗から、この広三郎の言葉を伝え聞いたという。世相が次々と移り変わる現代においても決して色褪せない貴重な教えである。また、外部からは実態がつかみにくかった「繊維の専門商社」という業種についても、瀧定(大阪店)時代に隆朗から薫陶を受けたことが大きいそうだ。

さて、瀧定(大阪店)から瀧定(名古屋店)に移り、取締役となった健太郎は、2018年のある日、当時の社長であり現会長の昌之から「そろそろお前が社長になってはどうか」と告げられた。その言葉をどのような心境で受け止めたのか。

「そう言われた瞬間、自分の背後が崖になっているような感覚といったらいいのか、今までずっと後ろにあったものがパッと消えてしまった気がしました。これからは自分が未来を作っていかなくてはいけないんだ、と」

今までは存在していた後ろ盾がなくなり、すべて自分の責任において瀧定名古屋の道を切り開いていく。そんな覚悟が決まった瞬間だった。これは、昌之の事業継承の仕方が健太郎に覚悟を決めさせた、と見てもいいようだ。というのも、社長を退いた昌之は「代表権なしの会長」となると決め、すべての権限を健太郎に移譲したからである。

そのころの幹部社員はみな、16年間にわたり社長を務めてきた昌之が育て、苦楽を共にしてきた人材だ。昌之に権限が残っていれば、どうしても彼らの意識は昌之に向いてしまう。その可能性の芽をあらかじめ摘むべく、昌之は権限のすべてを健太郎に移譲した。

「何事も徹底する性質」と健太郎が言い表す昌之が見せた潔い引き際に、業界内では「重病による引退説」が流れたほどだったという。こうした事業継承のかたちに、健太郎はありがたみと恐れを同等に感じながら、経営者としてスタートすることとなった。

同調圧力に負けない判断力

150年以上もの歴史を持つ瀧定名古屋もまた、当然、日本の歴史と共にあった。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と、近代国家・日本の発展と戦争特需の流れに乗る勢いで急成長した時期もある一方、厳しい経営難に陥ってもおかしくなかった歴史的局面もあるはずだ。いくつもの歴史のうねりを乗り越えてきた秘密はどこにあるのか。

その要因の1つに「同調圧力に負けない判断力」がある。

「周りがみんなそうしているから当社もそうする」ではなく、「周りがみんなそうしているが、当社はそうしない」という逆張りの経営判断で切り抜けた難事がある。

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