課長が「一国一城の主」として動く老舗の凄い底力 難事を切り抜ける判断力はこうして培われた

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第一次オイルショック前夜、日本列島改造論の影響から物価の高騰、過剰流動性の発生に伴う仮需要の過剰拡大、株価の暴騰が起きるなかで、同業他社は「積極的に仕入れて積極的に売る」という状況であった。「こんなことがいつまでも続くはずがない、必ず反動がくる」当時の社長・隆朗から「仕入れを控え、売約・買約の修正を行うように」という大号令が下ったという。そこへ1973年(昭和48)、中東の産油国が原油価格を70%も引き上げた影響で、のちに「狂乱物価」と呼ばれるインフレが発生する。

翌1974年(昭和49)には日本の消費者物価指数が23%も跳ね上がり、インフレ抑え込みの金融引き締め、株価暴落、大不況に陥った。それまで積極的に仕入れていた同業他社は、膨大な在庫をさばけずに苦しむことになった。もとより仕入れを控えていた瀧定は、ここで積極的な仕入れに転じ、同業他社を一歩も二歩もリードできたという。

問屋業という業種には「需給の調整」という側面がある。ある程度の在庫を抱えておいて、計画的に供給していく。仕入れも供給も急激に行うと決算時の損益が極端になってしまうため、どれくらい仕入れ、どれくらい供給するかという年間計画をしっかりと立てなければならない。その点で、オイルショック前後の瀧定の判断は的確だったといえる。

「大きな変化に備えておいたことで、業界的に一番厳しい時期にベストなスタートを切ることができた。大きな潮目のところで先手を打っておき、変化が起こったときにはどこよりも早く対処することに長けていたと思います」瀧社長は、当時の社長・隆朗をこのように評する。

コロナ禍で生かされたリーマンショックの「財産」

大きな変化が起こってから策を練るのでは遅すぎる。先々に起こりうる変化をいかに予見し、もっとも筋の良い備えをしておくか。それが切実なかたちで試されたのが、2020年からの新型コロナウイルスによる経済的打撃だ。

その前に、2008年(平成20)のリーマンショックに触れておかねばならない。このとき、瀧定名古屋の業績は売上高にして2割以上減、損益分岐点ギリギリのところにまで落ち込んだ。

利益を出せなければ、当然、企業として立ち行かなくなってしまう。そこで改めて積極的に利益を追求できるよう、全社を挙げて主に取り組んだのが、各事業部の筋肉体質強化および、中国をはじめとした海外戦略だった。この2点に力を注いだことが奏功し、2年後の売上高はリーマンショック前を超える。

こうして、リーマンショックは長い瀧定名古屋の歴史のなかでも大きな転換期のきっかけとなったわけだが、その「財産」がコロナ禍の下でも生きているという。

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