37歳がんで逝った男の20年後も残る闘病録の重み HTML手打ちでHPに希少がんとの闘いをつづった

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松田賢二さんが残した「My School」(筆者撮影)
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故人が残したブログやSNSページ。生前に残された最後の投稿に遺族や知人、ファンが“墓参り”して何年も追悼する。なかには数万件のコメントが書き込まれている例もある。ただ、残された側からすると、故人のサイトは戸惑いの対象になることもある。
故人のサイトとどう向き合うのが正解なのか? 簡単には答えが出せない問題だが、先人の事例から何かをつかむことはできるだろう。具体的な事例を紹介しながら追っていく連載の第16回。

20年前に公開された、知る人ぞ知る闘病録

<死ぬことは怖くありません。人間、いつかは死ぬのだから。でも、子供たちが成人するまで生きられないことは、親としてとてもつらいことです。
しかし、生前にこの文章を書くことができて、幸運だったと思います。
思い返せば、私の人生は幸運続きでした。
私を支えてくれた皆さんに、感謝します。
2002年3月22日>
(遺書)

「My School」(http://www.kit.hi-ho.ne.jp/cbxf)というサイトがある。近畿で暮らす松田賢二さんが2001年3月に公開した個人ホームページだ。インターネット黎明期に残された闘病録として、知る人ぞ知る存在となっている。

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賢二さんは30代半ばにして希少がんを患い、近く訪れる死を覚悟したうえでサイト構築を始めた。同病の人のサイトどころか、闘病サイトすら簡単には見つけられない時代。手がかりが乏しいなかで、自らサイト構成を考え、HTML文書を手打ちし、ひたすらに闘病の記録をつづっていく。複雑なページ階層と縦横するリンクなどから、必死で暗中模索した情念がひしひしと伝わってくる。

賢二さんはなぜそこまでして闘病録を残したのだろう。そして、なぜ亡くなって20年近く経つ現在まですべての記録が読めるのだろう。My School」から学べるところは少なくないはずだ。

賢二さんが生まれたのは1965年3月。東京オリンピックが終わり、大阪万博に向かう高度経済成長の空気のなかで双子の兄として育った。カメラや機械いじりが好きで、これと決めたらとことん続ける実直な性格はその頃から変わらないという。

大学を出て京都府庁で建物などの設備設計に関わる仕事につき、27歳で結婚した。そんな順風な暮らしに陰が差したのは、次女が生まれて1年に満たない1999年4月のことだった。

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